感想記

ネタバレ注意。乾燥注意。

地下室の手記

ドストエフスキーの小説「地下室の手記」を読んでのあれやこれや。

 

 

 1.どこが始まり?

 

この手記の作者とこの手記自体はフィクションです、第一部にはこれこれこういうことが書かれてあり、第二部ではこういうことが書かれています、といった「作者のメモ書き」と書かれた序文から、この本は始る。

 

で、ここでいきなり疑問が湧く。この部分は既に小説の一部なのだろうか? このメモ書きを書いた作者は誰って考えればいいのだろうか?

 

勿論、ドストエフスキーが書いてるんだけど、ドストエフスキードストエフスキーとして、小説の紹介文のような形で小説の枠外で書いているのか、それとも、序文も既に小説の一部で、ドストエフスキーのキャラクターである架空の作者が、この序文は書いているのか? うん、気になる。

 

折木さん、私、気になります!(私はアニメ「氷菓」をお勧めしているわけではない)

 

私の考えは、序文も既に小説の一部で、書いているのはドストエフスキーではなく、小説の中の架空の作者だ、というもので、その理由は、序文にはドストエフスキーの署名がなく、「作者のメモ」という表記がされているから。序文が小説の枠外のドストエフスキーだったら、自分の名前を書いておいたんじゃないだろうか?

 

また、序文が架空の作者によるものなら、同じように、この本の締めくくりの部分に書かれている、この手記の作者はいっぱい言いたいことがあるようで、この手記は本当はもっと続いていますが、もうこの辺でお開きにしましょう、といった台詞も、この架空の作者が書いたものとするのが妥当だろうと思う。

 

で、この本の構造をまとめると、ドストエフスキーが書いた「地下室の手記」という小説が大枠であって、その大枠の中で、架空の作者が、フィクションの手記を書いて、その手記の枠の中で、「私」という人物があれこれ言っている、という風になる。

 

ちなみに、ドストエフスキーは同じような手法を「カラマゾフ兄弟」でも使っていて、「カラマゾフ兄弟」の出だしでは、これはアリーシャの若いころの話です、私が話 したいのはアリーシャがもう少し年をとってからの話なんですが、その話をするためには、アリーシャの若い頃の話から始めなければなりません、っていうようなことが書いてあった。この序文もドストエフスキー本人の発言ではなく、彼のキャラクターである語り手によるものだと私は考えている。もう一つちなみに、ドストエフスキーは、アリーシャが登場する「カラマゾフ兄弟」のその後の小説は書いていない。書く気があったらしいということは聞いたことがあるけど。

 

 

2.序文の作者=「私」?

 

さて、折木さん、もう一つ気になることがあります。

 

この手記の作者って、本当に、この手記の中の「私」とは違う人物なんだろうか?

 

実はこの二人は同一人物なんだけれど、作者はこの手記の内容を公にするのに恥じらいを感じたり、自分が言っていることが真実ではないかもしれないと疑ったから、わざわざ序文で、これは全部フィクションです、って言って、あたかも自分自身の話ではないってことにしたんではないかと私は思っている。

 

で、その根拠になるのが第1部11章。ここには「私」がこの手記を書いた理由が書かれていて、その理由はというと、

 

自分が避けていた過去の出来事を誤摩化さないで、ちゃんと思い出して書いて、それらの出来事に対する客観的な説明をするため。また、そうすることで、その嫌な記憶から解放されると思ったため。

 

でも、嫌な思いでをちゃんと思い出すのは難しい、しかも、それを文章で書くのはもっと難しい事だと思う。それは「私」も感じていたことのようで、第1部11章で「私」は自己自伝について、みんなかっこつけて、自分の都合のいいように、過去を書き変えちゃうものだ、と話していた。

 

でも、「私」は真実を書きたかったんだと思う。そして、そうしようとしていたんだと思う。これに関する「私」の葛藤は、ライザの手にお金を渡すシーンなんかでも書かれてあったことだし。

 

「私」が、自分の話は全部うそです。信じてはいるけど嘘だと疑っています、というようなことを同じ11章で言っていたことも、それ以外のあちこちで、嘘でしたー、って言っていたことも、上記の説明で納得できるのではなかろうか?

 

というわけで、真実を書こうとしたものの、本当にこれが真実だったか、「私」が疑ったから、この手記を書いた後で、やっぱり、これはフィクションでした、ってことに「私」はした、というのが私の意見。

 

でも、この手記って「私」が自分自身の過去と対峙するために書いただけなんだったら、これはフィクションです、なんて序文をわざわざ書く必要があったんだろうか? 自分のためのもので、他人に見せるものでないなら序文は不用に思える。 

 

序文をもう一度見てみると、作者がこの手記をかいた理由は、ちょっと前までよくいたある種の典型的な人間がどういう人間かということをより明確にみんなに伝えるため、とかなんとか書いてある。これって、「私」の11章での、この手記は誰かに見せるものじゃなくて、「私」のためだけに書いたものだ、っていう発言と完全に食い違っている。

 

 やっぱり、序文の作者と「私」は別人じゃないの?

 

と、お思いのみなさん、そうではございません!

 

2章で「私」が話している、ある種の快感について書かれている部分を思い出してくださいませ。最低な振る舞いをして、それを恥ずかしいと思うものの、それがだんだん快感になっていたと「私」が言っている部分です。ここで、「私」は、この快感を自分以外の人達も感じているか知りたいから、この話をしたと言っています。さらに、「私」は、なぜ最低なことをして快感が得られるのか、それを説明するために筆を取った、とも言っています。

 

というわけで、「私」は当初自分自身のためだけに、この手記を書いていたのだけれど、書いた後で、その一部を公にしようと決めたのではないでしょうか? で、「私」がこの手記を公にすることにした理由は、公にすることで、このある種の快感ををみんなが感じているかを読者の反応から伺うため、と、それから、「私」が考えた、この快感が何故起こるかということに対する説明を人々に見せびらかしたい、と「私」が感じたからではないでしょうか?

 

しかし、その上で自分の醜態をさらすのには気がひける、だから、この話は私自信の話ではありません、フィクションです、ということを序文で書いたんじゃないでしょうか?

 

で、こう考えることには、もう一つ利点があって、それは、序文の作者=「私」と考える事によって、なんで第2部の冒頭にネクラソフとかいう人の詩が載せてあるのかという事の説明がそれによってつくことなのです。ええ、そうなのです。

 

 

3.ネクラソフの詩

 

この詩を見てみると、なんとなく、ライザと「私」との間の出来事に似ていないだろうか?

 

前半部分を見ると、なんとなく、売春宿での「私」による嫌がらせの長い説教の後に、ライザが絶望して泣いていた部分に似ている。

 

でも、後半の、君は君の悲惨な状況を私に見せた、とか、屈辱的な状況を思い出して君は顔を隠した、とか言っている部分は、ライザが家に来てしまって、かっこつけてたのに貧乏がバレてソファで顔を隠して泣いていた「私」の状況に似ている。

 

で、詩の中の「私」と「君」のどっちがライザでどっちが「私」(手記の「私」)なのかは、さておき、この詩って、誰がこの本の中に載せたんだろうか?

 

手記の「私」が、自分のためだけに書いている手記に、わざわざこの詩を載せる理由はあまりないような気がする。とすると、載せたのは序文の作者ということになるんだけど、じゃあ、なんで序文の作者はこの詩を第2部の頭にもってきたんだろう?

 

私の答えは、この手記がフィクションであることをより強調するため。読者のみなさん、この話を実話だと思わないでくださいね、この話はネクラソフの詩からヒントを得て書いた作り話ですよ、自分はこんな恥ずかしい体験してませんからね、ということを序文の作者が読者に納得させるために、この詩は掲載されたんじゃないだろうか?

 

「私」は、よく小説や詩から色んなことをパクって、自分の妄想の中で使っていると言っていたし、売春宿へ向かったツバコフ達を追いかける途中で計画した彼に対する復讐も小説からパクったものだと言っていた。 こうやって、文学に精通していて、それを様々な用途で使っている「私」が、自分の真実の手記をあたかも作り話と見せかけるために、実際に起こった出来事になんとなく似たこのネクラソフの詩をこの本の中に組み込んだとしても、そんに不思議なことではないんじゃないだろうか?

 

しかも、もし、序文の作者と「私」が別の人間だったとしたら、また、「私」が序文の作者の創作だったとしたら、この詩が第二部の頭の部分にある理由って何なんだろう?

 

ネクラソフの詩がこの本に出てくる理由を一番よく、もしくは、おもしろく説明するには、序文の作者=「私」と考えるのが良いのではないだろうか?

 

 

4.快感

 さてさて、さっき出てきた、ある種の快感について考えてみよう。

 

この快感について第1部の2章に、この快感は堕ちるとこまで堕ちたけど、それについて、どうしようもない、ということからくる快感で、「私」のように物事を分かりすぎる人間が、これを感じるのは当然で、それに対して「私」が、どうしようもない、ってなるのも当然の結果だ、というようなことが書いてあった。

 

で、「私」が何を言っているかというのを解釈するにあたって、Determinism(とりあえず決定説と呼んでおく、一般的にこれがどういう風に日本語訳されているのか私は知らないし、めんどくさいので調べたくない)という説について、少々お話しなければなりませぬ。うん、お話した方がいいんじゃないだろうか。殆どみんなが知っていることなんだろうけど、私のお友達で知らない人がいたので一応書いておく。なので、誰でも知っているようなことを、私がこれ見よがしに書いているとは思わないで頂きたい。

 

 で、決定説とは何かというと、世の中に起こる出来事は、自然の法則と、その出来事が起こる前の世界の状況によって、全部どうなるか決まっているという考え。

 

世の中に起こることって、自然の法則にのっとて起こるわけだから、ある時点での世界の状態から次の状態、それからまたその次の状態、さらにその次の状態に移行するのって、全部自然の法則にのっとて決まっちゃってるわけで、で、そうすると、人間が何考えてどういう行動にでるかとかも全部決まっちゃってるっていう。。。 うぎゃー、私は自分の意志で自由に行動してると思ってたのにー! 全部決まってたら、自由じゃないじゃん。わしゃ、ロボットかー!

 

というわけで、この決定説のおかげで、「私」が最低なことをするのも、それは自然の法則と過去の世界の状態によって決まっていたわけで、どうしようもないことだ、ということになる。「私」の話している快感はこのどうしようもなさに由来しているんだと思う。

 

で、この路線で、3章、4章、5章辺りで「私」が言っている事を、もう少し分かり易く言い直すと、

 

決定説のおかげで、何もかも全部決まっていたとしたら、たとえ誰かが自分に対して極悪なことをしたとしても、それは全部決まってたことで、仕方ないわけで、その相手の責任を追求したり復讐したりするのも、仕方ないんだから、なんか違うなって感じだし、でも、腹が立つのは腹が立つし、自然の法則に文句言っても仕方ないし、だから、もう、なにもできません! 自分が誰かから被害を受けても、そんなの、どうしようもない歯の痛みみたいなもんじゃん! うぎゃー、って言うしかないじゃん。そんでもって、うぎゃーって叫んだ結果、その声がうるさいって、誰かの迷惑になるのもしゃーないやん。さらに、誰かが迷惑がってんのを、なんかおもろい、って思ってまうんもしゃーない。「私」が最低なことするのも一緒。決まってしまってるんやし、しゃーないやん。そう、しゃーない、しゃーない、何やってもしゃーない。だから、もう諦めます。もう何もしません! うん、でも、それはそれで、暇すぎて。。。 結果、「私」は普通の人っぽく、あんまり考えないで、感情に流されて生きてみようともするんだけど、結局、嘘ってわかってるから、なんか気持ち悪くなってまう。

 

さて、決定説のおかげで、自分が最低な事をするのは仕方が無いことだ、と「私」自信が考えていることは分かるけれども、でも、それが何で快感なんだろうか?

 

あぁ、自分は最低だ、でも、どうしようもない、他にやりようがない、もう笑うしかない! というような感覚が「私」の話している快感なのだとしたら、それは、なんとなく理解できるんじゃないだろうか? 今、この文章を読んでいる人も多分感じたことがあるんじゃないだろうか? どうしようもない悲惨な状況って、悲しいのと同時に、なんとなく滑稽に思えてしまう。(こんな感覚だれも感じてなくて、私も「私」同様のヤバいやつだったら、どうしよう。。。 あなたも分かりますよね、この感覚。分かると言ってくれ。。。)

 

でも、なんで人間はそんな風に感じるだろう?

 

5.快感 その2

 一旦、この小説を置いておいて、説明を試みたいと思う。私の個人的な見解を凄く単純に言うと、この快感は、自分を客観視して、自分自身を不幸な第3者として見る事により、自分が第3者としての自分に感じる優越感からくる快感である。

 

もう少し賢そうなことを言ってみよう。人間の自我は元々、他人の置かれている状況、彼らの表情、声のトーン、話の内容など、様々な情報をそれぞれ受け取る脳の専門機関(module)から個別に発信される情報を受け取り、それらをまとめて分析し、他人が次にどういう行動をとるかという事を予測する機関(the mind reading module)が、自分自身の言動等の情報に向けられる事により生まれたものなので、人間は常に自分を第3者としてみている。だから、悲惨な状況下におかれた自分のことも第3者として認識しており、その認識からくる情報が、他人と自分との社会的地位を分析する機関(the social status module)に送られ、そこで、その第3者として扱った自分の社会的な地位が、自分の地位より下がった、つまり、自分の地位が上がったという判断が生まれ、これにより快感が生まれることがある。この快感こそが、絶望的な状況における、もう笑うしか無いという感覚なのである。

 

で、この説が正しいなら、社会的地位に関心が低い人間は、もう笑うしか無い感覚をあまり感じないということになるんじゃないだろうか? そういうデータは無いのかなぁ? あったら、教えて!

 

(お気付きの人もいるかと思うが、私はかなりPeter Carruthersの本に影響を受けている。)

 

 

6.快感 その3

さて、「地下室の手記」に話を戻そう。

 

私の解釈では、第1部7、8、9章辺りで「私」が話していることは、このある種の快感はなぜ起こるのかという問いへの「私」の答えなんだけれども、っこれを説明するのに、まず、7章の冒頭から出てくる、知ってて悪い事をするやつはいない説について話をしたいと思う。

 

イヤイヤ、知ってて悪い事するやつなんていっぱいいるじゃん。強盗って悪い事だよなぁ、でも、お金欲しいから盗んじゃおう! とか、お酒は飲み過ぎるといかんなぁ、でも、飲みたいし飲んじゃおう! とか、欲望に負けるやつイッパイいるじゃん。

 

なんてことを言っていると、ソクラテスがやって来て、

 

マジで言ってるの? 欲望に負けるって、お金とかお酒とかで得られる楽しさに負けてるって言ってるわけでしょ。てことは、盗んだお金とか飲み過ぎとかで得られる楽しさっていうか、まぁ、利益とぉ、それで得る不利益、嫌な思いするとかそういうこととを比較して、利益の方が多いって考えたってわけでしょ。でもさぁ、強盗とか飲み過ぎはさぁ、みなさんご承知のとおり本当に悪い事なんだよねぇ、でもさぁ、それって、不利益ってことでしょ。嫌な思いするから悪いことなんだよねぇ。そうでしょ。それ以外の理由ある? 倫理的に悪? え、じゃあ、倫理的に悪って何? なんでそれがダメなの? 結局、自分に不利益だからじゃないの? 嫌な思いするからじゃないの? それ以外の理由ないよね。うん、だからさ、知ってて悪い事するやつって、利益と不利益の比較をキチンとできなかったってことだよね。それって、計算の仕方を知らなかったってことだよね。じゃあ、単なる無知じゃん、知っててじゃなくて、知らなくてってことじゃん。でさぁ、せっかく、こんな話してるんだから、ここでやめにしないで、ついでに利益ってなにかについて考えてみようよ!

 

というような具合に絡まれることでしょう。(これについて興味がある人はプラトンの「Protagoras」を読んでみよう。「氷菓」と違って、こっちはお勧め。)

 

 

で、 この説が、堕ちるとこまで堕ちることで得られる、あのある種の快感とどう関係しているかというと:

 

この説によると、人間みんな、自分にとって不利益なことはしない、でも、「私」は第2章に書いてあるような最低なことをする人間だ。なぜ「私」はそんなことするの?

 

答え: 最低なことをすること、また、それによって得られる快感こそが人間にとっての真の利益だから。

 

付け加えると、最低なことこそが、実は、最高なことで、そういうことをしない人達、「私」とは違う普通の人達は、自分達にとっての真の利益を知らない無知な愚か者だ!

 

でも、最低なことをすることが、なぜ人間にとっての真の利益だなんて言えるの?

 

答え: 知識による判断で、理にかなった最善な選択をし続けて、みんなが豊に平和に、つまり、幸せ暮らすことは可能かもしれないし、それは一見人間の利益に思えるかもしれない。でも、そんなの本当の利益じゃない。そんな生き方、理にかなった行動ロボットみたいじゃん。まるでピアノの鍵盤じゃん。人間にとっての真の利益は、好き勝手にすること、わざと最低なことをして、嫌な思いして、不利益を得て、それによって、自分がピアノの鍵盤じゃないってこと、理にかなった行動ロボットじゃないってこと、さらに、自由であることを証明することなんだ!

 

ということなんだと思う。

 

というわけで、ある種の快感はなぜ起るのか? この問いに対する「私」の答えは、最低なことをすることで、「私」は自分の自由を証明することができる、これを証明することは人間の真の利益である、この真の利益を得たという喜びこそがあのある種の快感の正体なのである。

 

いかかがでしょうか? 私の解釈は納得のいくものでしょうか?

 

ちなみに、もし決定説が正しいなら、例え、理にかなってない、自分にとって不利益なことをしても、結局、それも決定されていたことなのだから、理にかなっていない事をするということが「私」が自由であるという証明になるかというと、それには疑問を感じざるを得ない。 おそらく、「私」にとっての自由は、理にかなった行動ロボットではない、というだけのことだったのだと思う。

 

 

 

7.言い訳

 今まで見てきたように、「私」にとって、クズな行動をとることは、自分が自由であるという事の証明である、ということのようなんだけど、でも、この考えって、結局、言い訳であり、現実逃避のための嘘だ、というふうに「私」自信が考えているんじゃないだろうか?

 

この解釈の根拠として私が提示したいのは第2部の一番最後の部分で、そこで「私」は、我々はみんな現実からひきはなされてしまっていて、結果、現実は気持ち悪くなって、辛過ぎるものになっているので、本の方がいいと思ってしまっている、と言っている。本というのは、別の部分で「私」がよく逃げ込んでいたと言っていた夢、だとか、美と壮大さ(the beautiful and sublime)の世界、つまり、虚構の世界のことなんだと思う。そう考えると、この部分で「私」は自分の現実があまりにも悲惨なので、現実逃避して虚構の世界に生きようとしているということを認めている、とゆうように思える。

 

で、この現実逃避のエピソードして「私」は、ライザとの一件を、その後、家で考えた(私の言葉で言うと、「夢の世界に入った」)時のことを話したんだと思う。この部分で、「私」は、

 

ライザは自分に対して怒りを感じている方が彼女のために良い、侮辱されたと感じている方が良い、というのも、侮辱されたという気持ちは彼女を憎しみと許しにより高める

 

なんてことを言っている。どういうことかというと、

 

ライザが侮辱されたという怒りを感じ続けたなら、それは彼女にはプライドがあるからであり、売春をしなければならないという彼女の状況において、プライドを持ち続けるというのはいいことで、さらに、ライザがいつの日か「私」を許そうと思えたなら、それにより彼女は寛大さを手に入れ、人として成長できる。そう、私は彼女に対し、大変素晴らしいことをしたのだ。

 

といようなことなんだろうけど、でも、これってやっぱり、現実逃避のためのただの言い訳で、結局、嘘でしかないと「私」自身分かっていて、だから、ライザとの一件の後、「私」はあまりにも自分が嫌で病気になりそうだった自分で認めていたんだと思う。

 

(このあたりは「罪と罰」に似ている。ラスコワニコフも質屋の老女を、なんやかんや大げさな言い訳っぽい理由で殺して、その後、罪の意識に苛まれて、ボロボロな精神状態になっていったわけだし。)

 

これを踏まえると、この手記は一言で言うと言い訳なんだと思う。真の利益がどうのこうのとか、「私」は大げさなことを言っているけど、結局、自己嫌悪から生じた自分に対する言い訳なんじゃないだろうか?

 

で、ドストエフスキーがこの小説で言いたかったのは、言い訳しないで現実と向き合え!、ということなんじゃないだろうか? まあ、私は当時のロシアの状況だとか、ドストエフスキーについてのこととかを、あまり知らないので、彼がこの小説で何を言いたかったかは、正直、よくわからないんだけど。

 

 

8.総評

この本は読んでいておもしろかったし、色々考えて遊べたので、ABCDでの評価はA。

 

 

 このブログエントリーを最後まで読む人はいるんだろうか? いたら、ありがとう。