感想記

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アルジャーノンに花束を

ダニエル=キイスのSF小説

 

まあまあ、おもしろかった。以下、あれやこれや。

 

1 みんなが共感できるお話

 誰だってもっと頭がよくなりたいなぁ、とか、こういうことできたらいいのになぁ、という憧れを持っているだろうから、手術前のチャーリー=ゴードンに共感できる。

 

それから、以前何かができるという理由で尊敬していた人のことを、自分がその人以上のことができるようになってしまってから考えて、その人があまり大した人じゃなかったんじゃないか、なんて思うことも、きっとみんなが経験するようなことだから、手術後に周囲の人間より頭がよくなってしまったチャーリーにもみんなが 共感できる。

 

さらに、今現在できることが年をとって(認知症なんかで)できなくなってしまうという可能性(確定していないことと思いたい)に対して、人間誰もが恐怖や焦りを感じるだろうから、手術の効果に持続性がないことを知ったチャーリーにも誰もが共感できると思う。

 

2 頭がいいってことは幸せなことなの?

頭がいいってどういうこと? という話は置いておいて、

 

手術後、頭の良くなったチャーリーは手術前のチャーリーに比べて幸せだったんだろうか? 手術後の方が幸せだったというなら、徐々に頭の良くなっていった中で、どの時点で最も幸せだったんだろうか?

 

チャーリー抜きにこの問題を考えると、自分の周りの人よりちょい上くらいが一番いいんじゃないかと思う。周りの人間と同じように何かの問題に悩み、彼らより少し早く彼らがたどり着く答えに到達する人間は、他人と一緒に問題に取り組む喜びを得る事ができるし、周りが理解できる答えに周りより少し早くたどり着くことで、尊敬されるという喜びをも得る事ができる。周りより極端に頭がいいと、そもそも問題を共有できないだろうし、できたとしても周りの人間の理解を超える答えにたどりついてしまい、孤立するのではないだろうか。

 

勿論、頭がいいと幸せかという問題は頭の良さだけでは考えれない部分もあると思う。例えば、別の理由で周りから好かれている人間が頭がいいと、より好かれるということに繋がり、それがまた幸せに繋がったりすることもあるだろう。しかし、別の理由で嫌われている人間の頭がいいと、それはさらに嫌われる要因になり、より不幸になったりもするのではないだろうか。

 

というわけで、頭がいい人間が必ずしも幸せかというと、そうではないと思う。いや、むしろ、頭がいい人間は不幸だ! 実際、私の知っている頭がいい人は全然幸せそうじゃない。色々んなことを知っていると悩みが増えるだけなのだ。頭なんて良くなくていい。バカの方が幸せなのだ。そうだ、バカ万歳!

 

などという事を言おうものなら、「幸せと満足(happiness and content)は違う!」とJSミルに怒られてしまうかもしれない。高校の倫理の教科書にも載っていたミルの有名な一節が思い出される。

 

「満足した豚よりも不満足な人間である方が良く、満足したバカよりも不満足なソクラテスである方が良い」("It is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied." 興味がある人はUtilitarianismを読もう。)

 

ミルの考えをもとに、私の知っている頭のいい人とバカを比べたとき、色んなことを考える事のできる頭のいい人間よりも、単純なバカの方の方が満足はしているかもしれないが、幸せに関していうと、頭がいい人間の方が幸せだということになる。

 

ちなみに、なんで不満足な頭のいい人間の方が満足したバカより幸せだなんて分かるんだ?

 

ということに関しては、経験者(competent judges)がそういう判断を下すから、というのがミルの答えになるんだと思う。

 

頭のいい人間は、バカな状態(例えば、子供の頃とか)と学んだ後の頭のいい状態と二つを経験している。その二つの状態を比べて、どっちがいいかと聞くと、頭のいい人間は、頭のいい状態の方が良いと言う。バカは頭のいい状態を経験したことがないから、バカの方がいいと言うかもしれないが、経験者と未経験者の意見なら経験者の意見の方が重要だ、ということになるのではないだろうか。

 

さて、「アルジャーノンに花束を」に話を戻そう。

 

バカと天才を経験したチャーリーは、どっちの状態が幸せだと感じていただろうか? 天才の状態の方がバカな状態よりも幸せだったと感じていたんだろうか? それとも、天才になってキニアン先生やパン屋の同僚と上手くいかなくなったチャーリーは、バカだった頃の方が幸せだったと感じていたんだろうか?

 

チャーリーが、バカだった頃の方が幸せだったと言っている記述はプログレスリポートにはなかったとように思う(あったら教えて)。また、手術の効果が永続的でなく、また元に戻ってしまうということを知ったチャーリーはどうにかそれを遅らせようと、本を読んだりしていたので、やはり、バカよりも頭がいい方が幸せだと思っていたのかもしれない。

 

でも、天才のチャーリーは、バカのチャーリーが自分のことを窓から覗いて見ているとか、元に戻るということは、体を元のチャーリーに返すということだなどと言っていたので、この二人は別人格として扱うべきなのかもしれない。もし別人格なら、天才のチャーリーもバカのチャーリーもバカと天才の二つの状態を経験したという事にはならないので、バカと天才はどっちが幸せかという答えをチャーリーから得ることはできない。

 

それから、自分の気持ちを自分が完全に把握できるかというと、そうではないように思える。天才のチャーリーだって自身の気持ちで分からない部分があったと思う(プログレスリポート12に書いてあったし)。だから、天才のチャーリーが、バカよりも幸せだと言ったとしても、自分でも気付かない心の奥底では、バカの方が幸せだったと感じていたかもしれないという可能性は残る。

 

 (この問題について、ミルはなんて言うだろうか? 経験者の心の奥底までもがあらわになるテストを経験者に受けてもらうとか? 例えば、バカになれる薬を天才の経験者に渡したら、天才の経験者はそれを飲まない。この経験者の行動は、心の奥底の感情もすべてひっくるめて経験者が判断した結果だ、なんて言うんだろうか?)

 

ま、そんなこんなで、次は、チャーリーの心の奥底について考えてみよう。

 

 

 3 プログレスリポート12

 とりあえずリポートの概要:

 

セントラルパークでチャーリーは女性と出会い、彼女にセックスしよう誘われたが、妹のノーマを身ごもっていた頃の母親、ローズのことを思い出し、この女性に対し怒りを感じて彼女の肩を掴む。

 

女性は悲鳴をあげ、周辺に居合わせた人間達がチャーリーをフルボッコにしようと追いかけ回す。

 

チャーリーは逃げる途中で何かにぶつかる、よく見るとフェンスで囲まれた子供用の遊具のある場所があって、チャーリーがぶつかったのはそのフェンスだった。

 

チャーリーはセントラルパークから無事に逃げ切るが、現場にいた人間達に捕まえられてフルボッコにされたかったと感じる。

 

家に戻って、この出来事を思い出したチャーリーは、どうして自分はフルボッコにされたいなどと思ったのかとかと不思議に思う。

 

同時に、肉屋の奥さんがネズミの尻尾をナイフで切るという鼻歌がチャーリーの頭の片隅に流れる。

 

さて、なんでチャーリーはフルボッコにされたいと感じたのだろうか? チャーリーの心の奥底にはなにがあるんだろう?

 

でも、その前に一旦、

 

4 ドン・キホーテ

私はドン・キホーテを読んでいないし、買い物をしたこともないけど、

 

頭の良くなったチャーリーが元のチャーリーに戻って行く過程で、チャーリーはドン・キホーテを読んで、それについて、この小説が何かの比喩であることは分かるのだけれど、その比喩がなんの比喩なのかは、もう分からなくなってしまった言っている。

 

ダニエル=キイスさん、わざわざ小説が何かの比喩だということを教えてくれてありがとう! ドン・キホーテが風車をドラゴンだと思って、風車と闘ったりしたなんてことを教えてくれてありがとう! きっと、あなたも小説の中で比喩をふんだんに使っているんでしょうね。

 

そういえばキイスさん、パン屋の女性が頭の良くなったチャーリーにエデンの園の話をしてましたよね。人間が知恵の実を食べてエデンの園を追い出されたとかいう。わざわざご苦労様です。これってやっぱりこの小説の比喩なんですかね?

 

それから、キイスさん、あなたの時代はフロイドが流行ってたんですよね。私はフロイドにそこまで関心がないんですよ。残念ですね。

 

でも、キイスさん、フロイドの学説とあなたの小説って、めっちゃ関係してますよね。チャーリーがお漏らししてるシーンがよく書かれてましたけど、あれってフロイドの心理的性的発達(psychosexual development)の中のアナルステージ(the anal stage)に関連してるんですよね?

 

あと、チャーリーの頭の中に流れていた、肉屋の奥さんがネズミの尻尾を切るっていう歌。あれって、やっぱりフロイドの性器切除に関する恐怖(castration anxiety)と関係してますよね。で、その性器切除の恐怖って比喩的には男性が男らしくなくなることへの恐怖なんですよね。

 

そういえば、チャーリーがキニアン先生とセックスしようとして、パニックになった時、戦士とピンクのほっぺたの若い女性の夢をみて、その夢の中で剣を持っていたのは若い女性の方だったって言ってましたよね。これも男性らしくないってことの比喩ですよね。

 

 

5 母親ローズと妹ノーマとの再開

ローズとノーマと再開したチャーリーは、母親が自分のことを家から追い出した理由は、ローズが、チャーリーがノーマに対して性的な行動をとることを恐れたからだったからだと知る。チャーリーはこれに対し、覚えていないながらもノーマに対して何かしたことがあったのだろうかと不安を感じる。

 

さて、チャーリーは実際にノーマに性的な関心があったのか? なんらかの行動をとっていたのだろうか?

 

ノーマのシャワーを覗いたり、ノーマのパンツを手に取って見ていたというチャーリーの記憶の断片がプログレスリポートに書かれていた。しかし、チャーリーはもっと凄い事もしていたのか?

 

ローズとノーマとの再開のくだりのおかげで、チャーリーがセントラルパークに居合わせた人達からフルボッコにされたいと願った理由がなんとなく見えてくる。

 

そう、チャーリーはドMだったのだ! 

 

違うか。。。

 

 

フェンスで囲まれた子供の遊具のある場所が、チャーリーの心の奥底の子供の頃の記憶の比喩と考えて、

 

セントラルパークにいた女性の妊娠した腹部を見たチャーリーは、妊娠していた当時のローズの姿と共に、自分でもわからない心の奥底で、昔の自分が持っていたノーマへの性的な興味(もっと凄い事も?)と、それが原因で受けたローズからの暴力を思い出した。同時に、チャーリーは当時の自分のノーマに対する性的な感情に罪の意識を感じ、それに対する罰を受けたいと望んだ。 つまり、セントラルパークに居合わせた人達からフルボッコにされるということで、当時の自分のノーマへの感情を償いたいと感じたのだ。だからチャーリーはフルボッコを望んだ。

 

しかし、チャーリーは自分が昔ノーマに対して性的興味を持っていたということを思い出したくない。だから、チャーリーは当時の記憶をフェンスで閉ざして、思い出せないようにしている。結果、何故自分がフルボッコを望んだのかチャーリー自身にはわからない。

 

そこそこ、納得できるんじゃないだろうか?

 

ま、他の考え方(より発展したバージョン?)もあるかもしれない。 例えば、

 

フェンスで囲まれた子供の遊具のある場所 = エデンの園 = 手術前の無知な状態

 

 

6 その他

手術前と、手術後に知能が低下してしまったチャーリーはウサギの足や馬の蹄鉄なんかをお守りとして持っていた。この作品の中で、お守りやおまじないは頭の悪い人間がすることという位置づけなんだと思う。でも、アルジャーノンが死んだ時、バカバカしいと自分で言いながらも、まだ頭の良かったチャーリーはお墓を作って花を添えていた。なんでチャーリーはそんなことしたんだろう?

 

手術前のチャーリーの文章は幼稚に見えるかもしれないが、内容ははっきりと伝わってくる。 私は知的障害者の方々と接する機会がないために、知的障害者をみくびりすぎているのかもしれないが、よりリアリティを出すためには、キイスはもっと分かりにくく書くべきだったんじゃないだろうか?

 

この小説は当時流行っていたフロイドの心理学を意識して書かれているみたいだけど、フロイドの心理学に私は興味が持てないし、この本をより楽しむためだけに、わざわざフロイドの本を読みたいとも思えない。

 

 

総評

上手くできた話だと思うし、読んでいる時も、そこそこおもしろいと思ったけど、やっぱり凄くおもしろいとまでは思わなかったので、ABCDでの評価はB。

 

 

中学生の時、私のクラスでは班ノートという交換日記を書かなければならなかった。その班ノートの中で、テニス部の女子がダニエル=キイスの作品「5番目のサリー」が好きだと言っていた。「アルジャーノンに花束を」も好きだったのかな?