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感想記

映画、小説、アニメ等の感想をつれづれなるままに綴っています

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

現代の日本を代表する小説家の作品を読んでみたい。ある日、そんな欲求に駆られた私がネット検索で該当する作家を調べたところ、おそらくその作家は村上春樹であろうという結論に達した。小説をあまり読まないタイプの人間だった私ですら、「ノルウェイの森」というタイトルは子供の頃から聞き覚えがあったので、「ノルウェイの森」こそ私が読むべき村上春樹の作品であると私は反射的に思い、すぐさまこの本を購入するべく意気揚々と駅ビルの中にある書店へと足を運んだ。しかし、村上春樹コーナーで村上作品の巨獣的とも言えるページ数の多さに直面し気後れした私は、本当にこの作品を読むべきなのか購入前に今一度考えてみる事にした。それから本屋を後にした私は散歩がてらに近所のパン屋併設のカフェに立寄り、カフェオレ(店員は「ラテ」と呼んでいる)とチョコレートの入ったクロワッサンを購入し、土曜日の午後の秋風に吹かれながらアパートの方へと歩いた。土曜日の午後は何故だかいつも私をほんの少し幸せな気分にさせてくれる。私にとって土曜日は完全な平日ではなく、そして完全な休日でもない。この「ささやか」という形容詞がお似合いの幸福感はきっと土曜日のこの曖昧さからくるものではないだろうか。そんなことを考えながら自宅に戻った私はCDプレイヤーの中に入っていた「ティファニーで朝食を」のサウンドトラックを聞きながら、カフェオレとクロワッサンを楽しみつつ、村上作品の情報収集のため再びパソコンを起動させた。何かを学びたいのならその道のエキスパートから学ぶべきである、そんなソクラテスの言葉を思い出し、私はネットのハルキストと呼ばれる村上春樹ファン達の村上作品紹介ブログをいくつか読んでみた。そして私はどうやらこの「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」こそが平均的ハルキストの、どれか一つだけ村上作品を読むとすればこれだ、という作品であるということと、「終わり」という言葉の送り仮名は「り」だけとする説もあるということを知った。かくして私は、第21回谷崎潤一郎賞受賞作であり、世界の様々な言語にも翻訳されている、この上下巻あわせて1000ページ近いおそらく私が今までの人生で読んだ中で最も長い小説を読むに至り、約一ヶ月かけてこの作品を読破したのだが、この本の感想を一言で言い表すと、たいした事無い。

 

ABCDで評価するとC。

 

良い点:

・二つの話を交互に進めて行って、最後にまとめた。

 

・当時の流行がなんとなく伝わってくる。

きっと、ポール=スチュアートの洋服を着たりストラスブルグソーセージをトマトと煮込んで食べたりするのが、すごくお洒落だったんだろう。それから、そういった流行を取り入れたこの本を読む事もお洒落な事だったんだろう。

 

 

悪い点:

・内容が長さにともなっていない。

ページ数を稼ぐためだけに書いているような箇所が多い。

 

・行き当たりばったりで書いているようで、話が練られていない。

この世界の命運が主人公にかかっているという風に書き始めて、結局そうでもなかったり、計算士や記号士とは別の組織として派手に現れた二人組が、その後話に全く関わってこずに、最後、あれはやっぱり記号士でしたってことにしたり、博士から貰った頭骨が物語の重要な鍵であるという風にしておいて、ただのお土産だったってことにしたり、すごくおもしろくなりそうな期待をさせておいてガッカリさせる展開。

 

その他:

・知ったかぶりな感じが強い。

ハードボイルドワンダーランドの主人公は音楽、文学、哲学等の作品についてよく触れるが、殆ど名前を出すだけで、それらに関する優れた考察があるわけでもなく、彼からそれらに関する深い知識は感じられない。村上春樹が意図的に知ったかぶりな人間を描いているなら成功しているのだろうけれど、村上自身が知ったかぶりな人という印象を受けてしまった。ハルキスト達がこの作品を評価するのは、この作品を読む事で自分達も音楽、文学、哲学等に詳しい人間であると錯覚し、そして、そこから満足感を得ているからではないかとふと思ったりもした。

 

・ハードボイルドワンダーランドの主人公の語り口調。

個人的に「涼宮ハルヒの憂鬱」のキョンを思い出した。きっとハードボイルド小説の主人公はこういう語り口調なのだろうけど。

 

う〜ん、やっぱり「ノルウェイの森」にするべきだったのか? 「ノルウェイの森」は読んだ方がいいんだろうか?