感想記

ネタバレ注意。乾燥注意。

22年目の告白 -私が殺人犯です

行きつけの輸入商品雑貨店の人の勧めで、「気狂いピエロ」という映画をTSUTAYAに借りに行った際、その日限定でレンタルキャンペーンをやっていると店員に告げられた。せっかくなので、他の映画も借りようと思い、その場にいた店員3名それぞれのお勧め作品を借りることにした。以下、彼らのお勧め作品名。

 

店員A(女性): 22年目の告白ー私が殺人犯です

 

店員B(女性): ファンタスティックビースト

 

店員C(男性): フィフティシェイズオブグレイ

 

男性店員は、最初「12人の怒れる男達」、次いで「ミッドナイトインパリ」を勧めてくれたのだが、私は既にこれらの作品は観てしまっていたので、借りたのは彼の三つ目のお勧め作品。

 

こういった経緯で観た「22年目の告白ー私が殺人犯です」についてのあれやこれや。

 

殺人の動機

クライマックスのシーンで、真犯人であるジャーナリストは殺人の動機について、おおよそ次のように話していた。

 

彼は、取材先の戦地で友人が後ろから絞殺されるのを見せられたという原因で、心に穴が開いた状態になってしまった。その穴を埋める唯一の手段が、親しい人間を目の前で絞殺されるという自分がされたのと同じ経験を他人にもさせ、それにより、他にも自分と同じ体験をした人間がいるということを認識する事だった。

 

これって、ちょっと問題があると思う。

 

ジャーナリストはメインキャラクターの刑事の妹を殺した際、その一部始終を刑事にも婚約者にも見せていなかった。これでは、彼の心の穴は埋まらない。

 

また、この刑事の妹に対し、刑事のアパートが爆発するところを見せていたが、これも背後からの絞殺ではないので、ジャーナリストの心の穴は埋めることはできなかったはず。

 

さらに、刑事のアパートで、ジャーナリストは、刑事を爆発で殺そうとしたが、これも背後からの絞殺を見せるという行為ではないので、心の穴は埋めることができなかったはず。

 

この最後の点に関しては、ジャーナリストが刑事を爆死させようとした理由は、肩を撃たれたことに対する単なる報復で、心の穴を埋めようしていたわけではない、と言えないこともないのかもしれないが。

 

どうも、ちぐはぐな感じがする。

 

それから、何故、ジャーナリストは殺人を止めたんだろうか? 婚約者が殺人犯として事件を説明していた時は、自分の計画が上手くいかず、ターゲットであるメインキャラクターの刑事ではなく、別の先輩刑事を殺してしまったことが殺人を止めた理由だと言っていたが、これはもちろん、真犯人であるジャーナリストが殺人を止めた理由ではない。心に開いた穴を埋めるために、殺し続けなければならなかったのなら、ジャーナリストが殺人を止めた理由ってなに? それまでに殺した人達で十分だったの?

 

 

時系列

婚約者が、真犯人はジャーナリストだと気付いたのは、テレビ収録の後(翌日?)、ホテルでこの事件に関する映像を見ていた時のようだったが、これは時系列的におかしい。

 

テレビの収録が終った後のシーンで、ジャーナリストの密着取材班が彼の別荘までの地図をなくしたことに気付くシーンがあった。婚約者が別荘へ行くために、盗んだということなんだろうけど、この時点で、婚約者はジャーナリストが犯人だということを知らなかったわけなのだから、彼があの時地図を盗んでいたというのは、どうにも納得がいかない。

 

 

その他

ジャーナリストの別荘、あんなに監視カメラがあってセキュリティーが充実していたのだから、婚約者が窓ガラスを割って侵入した時点で、ALSOKかなんかが駆けつけていただろうに。

 

クライマックスのシーンで、ジャーナリストが部屋に入った丁度いいタイミングでジャーナリストの殺人の記録がモニターに映し出されていた。ということは、婚約者は事前に一人で機材をいじって、何回もリハーサルをしていたということになる。想像すると結構笑える。

 

多分、この作品は神戸の事件の酒鬼薔薇聖斗が手記を出したことに着想を得たのだと思う。 私はあの事件についてあまりよくは知らないのでなんとも言えないが、映画の内容ははあの事件とはあまり関連がなさそうだった。 

 

 

総評

この映画は、よく考えられて作られた作品ではないと思う。それなりに制作費もかかっていそうなので、よくもまあこんなお粗末なものを作れたものだ、と正直呆れてしまった。その一方、おそらくこの映画は、実は彼は犯人ではありません、意外にもこの人が真犯人でした! という、どんでん返しを見せるためのものだったのだろうから、別に細かいところは気にしないで楽しめばいいのだ、とも思う。もちろん、もし自分が映画製作者だったら、こんな恥ずかしい作品は作れないけど。こういう気楽に観れる映画も必要だと思うし、いいんじゃないだろうか。実際、私も少なくとも途中までは、そこそこ楽しんで観れていたし。

 

ABCDでの評価はC。

 

 

万葉集1068

歌聖と称された柿本人麻呂が夜空を詠んだ和歌。

 

 

天の海に雲の波立ち月の船 星の林に榜ぎ隠る見ゆ

 

 

なんだか神秘的な感じがする。

 

さすが、人麻呂。

 

美しい。

 

 夜空が海で、雲が波で、月が船で、

 

ん?

 

星は林?

 

何故に海でまとめなかったんだ?

 

思いつかなかったの?

 

人麻呂って、そんな凄くないってこと? 

 

海に関する見立てでまとめると単純すぎるから、そうしなかったんだろうか?

 

確かに、「星の林」が不思議さが増しているような気がしなくもない。

 

「星の林」のおかげで、風に吹かれた林の木々の音が聞こえてきそうな、そして、その音がなんとなく星の瞬きの音にも聞こえるような。

 

それとも、人麻呂がイメージしてたものと私のイメージが違っていたのか?

 

壮大な夜空の海を、月の船がゆっくりと、穏やかな雲の波にゆられながら進んで行く様子を私はイメージしていたんだけれど、波は立っていると詠まれているし、言葉に忠実にイメージすると、

 

嵐の中、なんとか難破するのを免れようと猛スピードで港を目指している船が、勢い余って陸地に乗り上げ、そのまま林の中に突っ込んで行った。

 

と、いった感じになるのか?

 

でも、静かな夜空とする解釈の方が美しいので、「星の林」は上述のような人麻呂の工夫だったということにしておこう。

 

ま、人麻呂がどうゆう理由で「星の林」にしたにしろ、この和歌が美しいことに変わりはないのかもしれない。ABCDでの評価はA。

 

人麻呂の絵を飾って、人麻呂影供でもするかな。

 

 

一週間フレンズ。

アニメ「一週間フレンズ。」。

 

友達の記憶が一週間ごとにリセットされてしまう藤宮さん。そんな彼女と毎週友達になる長谷君のお話。

 

1.リセットされる記憶

 リセットされてしまう記憶というので、私が思い出すのは映画「メメント」とその元ネタになったであろう実在の人物、クライブ=ウェアリング。

 

メメント」は妻を殺され、自分も殺されかけて、その後遺症で、短い間(数十分か数時間くらいだったかな)で記憶がリセットされてしまうようになった主人公が、記憶リセット後の自分へのメッセージを、体にペンで入れ墨し、またそれを読み取みとることにより、自分から妻と新しい記憶を奪った相手に復讐するというお話。

 

で、おそらく「メメント」の作者がメメントを作る上でヒントにしたのが、ウィルス性の病気による脳障害で、7秒毎(もうちょっと長かったりするようだけど)に記憶がリセットされてしまう実在の人物、クライブ=ウェアリング。ウェアリングも日記をつけたりしているのだけど、彼にとってその日記は7秒毎に初めてみるものになるので、その中身は「H時M分、意識が戻ったぞ!」の繰り返し。

 

記憶のリセット、日記を書く事で記憶がリセット後の自分に情報を伝達するといった設定など、「一週間フレンズ。」の元ネタはこの辺なんだろうけど、「一週間フレンズ。」にはこれらの設定要素にもう一つの要素が加えてあって、それが次の項目。

 

 

2.友達のことだけ思い出せない

藤宮さんは友達に関することだけ思い出せない。1話の、藤宮さんが長谷君との屋上での事を思い出そうとするシーンで、長谷君の顔が斜線になってるのを見ていて、この友達のことだけ思い出せないていうのは、(これを読んでいる人は経験があるだろうか?)好きな人の顔だけ思い出せないという現象をヒントにしているんじゃないかな?と思った。

 

というわけで、「一週間フレンズ。」を簡単に表すと、

 

一週間フレンズ。」 = 「メメント」 + 好きな人の顔が思い出せない現象

 

さて、なんで好きな人の顔だけ思い出せないなんてことが起こるのだろうか?

 

今、思いついた、とりあえずの説明: 人間は好きな人を美化してしまいがち、でも、実際の人間の顔ってそこまで対称的で整っているわけではない。だから、実際にはそこまで美しくないその人の顔の写実的な記憶に対して、いやいや、あの人がこんな顔なわけない、と脳のどっかの部分が判断して、結果、好きな人の顔以外の記憶とその人の顔の記憶を結びつけることができないということが起こり、顔をおもいだせなくなる。

 

一般的に女性より男性の方が、恋愛において相手の容姿を重視する傾向があると言われているから、この説明が正しいなら、好きな人の顔が思い出せない現象の経験者は女性より男性の方が多いということになるじゃないかな? また、いわゆるブス専の方々の間ではこの現象の経験者は少ないということになるのではないか? どうなんだろう?誰か調べておくれ。

 

それから、この現象、顔限定なんだろうか? 好きな人の体系なんかも思い出せなかったりするもんなのか? 手ふぇちの人で、好きな人の手だけ思い出せないなんてこともあったりするんだろうか? 後、全盲の人で、好きな人の声だけ思い出せないとか?

 

 

3.学校の張り紙

 「タマゴッぺ」と「ナンパするな」と書かれた張り紙が校内に貼られているシーンが2回(多分)あった。 タマゴッぺはいいとして、「ナンパするな」の意図がイマイチよくわからなかった。

 

高橋留美子の漫画「らんま1/2」の、登場人物が壁をこわしているシーンなんかで、何故か「壁を壊すな」という注意書きが貼ってあったりして笑えるコマがある。この作品での「ナンパするな」の張り紙も同じ様な意図で貼られていたんだろうか? だとすると、アニメの制作者達は長谷君の行為をナンパと捉えていたということになる。でも、同じクラスの生徒の間でナンパするということが概念的に可能なのかは疑問。そして何より、全然おもしろくない。もし、これ以外の意図があったとすると、それがなんだったのかは不明。

 

 

4.演出

「友達との喧嘩。」

長谷君と喧嘩して、屋上で一人でいる藤宮さん。河川敷が写り、タンポポの綿毛がよこを飛んで、藤宮さんが長谷君を探しに走り出すというシーンがあった。

 

それから河川敷で長谷君を見つけたシーンでも、長谷君の「声かけてくれてありがとう」という言葉を聞いた藤宮さんの前をたくさんのタンポポの綿毛が舞っていたし、 日記が見つかるように祈る藤宮さんの前にも綿毛が飛んでいた。

 

これらのシーンで、藤宮さんの感情を表現する演出としてタンポポの綿毛が使われていたのなら、それはベタかもしれないが、効果的な演出に思えるんだけれど、それ以外のところでも綿毛が飛びまくっていたので、なんのための綿毛だったのかよくわからなかった。

 

「友達とトモダチ。」

長谷君と藤宮さんが屋上にいるシーンで、藤宮さんが九条君の話をしだしたとたんに、雲で日が陰る。この演出は意図が明確だったと思う。

 

「友達と海。」

たこさんウィンナーのくだりの直後に突然背景が発光するシーンがあった。時間の経過を表すためのものだったんだろうけど、違和感を感じた。

 

 

総評

まあまあ楽しく見れる、可も無く不可も無くといった感じ。ABCDでの評価はC。

 

メヌエット ト短調 BWV Anh. 115

 

ラピュタっぽい。

 

とてつもなくラピュタっぽい。

 

と、天空の城ラピュタをなぜか思い出してしまった。私はラピュタを小学生の頃に一度しか見ていないのに。。。 不思議。あぁ、ラピュタおもしろかった。。。 滅びの呪文、ダルサだったけ? パズーがシータと一緒にあの呪文を唱えるシーン、別にパズーは唱えなくてもいいのにと見ていて恥ずかしくなったのを今でも覚えている。

 

さて、アナ=マグダリーナ=バッハのためのノートにおさめられていたこの曲、ヨハン=セバスチャン=バッハが作曲したと思われがちだけど、作曲したのはクリスチャン=ペツォルドという人らしい。有名なBWV Anh. 114もペツォルド作曲らしい。

 

素朴な感じがする美しい音楽。別に音をたくさん鳴らさなくてもいい音楽は作れるんだと教えられた気がした。

 

雨ニモマケズ

宮沢賢治の詩として知られているメモ。

 

雨ニモマケズ
 風ニモマケズ

 

 (中略)


 サウイフモノニ
 ワタシハナリタイ」

 

うん、頑張ってね。

 

ABCDでの評価はD。

 

これの何がいいのか全く理解できない。

 

オン・ザ・ロード

"We've got to go someplace, find something."

 

Yea, because we ain't gonna find nothing on the road!

 

文学部出身の友人の一押し作品であるジャック=ケロアックの「オン・ザ・ロード」。

つまらなかった。本当に本当に本当に、つまらなかった。あまりにつまらなかったのでちょっと読んで止めて放置、を繰り返し、読むのに一年以上もかかってしまったというほどつまらなかった。

 

M月D日にPへ行ってAをした以外の内容のないブログをひたすら読んでいるような、オチのない話を永遠に聞かされているよな、「ただ書きゃいいってもんじゃないよ!」といったような、この本を読む事、それすなわち苦行、といったような、ヒットラーの考えた拷問じゃないかと疑ってしまうような、つまらない本の代名詞とでも言うべき作品だった。

 

しかし、この作品なぜだか名作といわれている。それが何故かを理解するために、この作品に関する講義を見てみたところ、色々とケロアックがやろうとしていたことがわかった。

 以下、その内容のいくつか:

 

 実体験をできるだけ複製したような小説を書く。

 実体験のあらゆる要素を組み込む。

 時間と同じ早さで進んで行く言葉で書く。

 頭の中の人間の意識の流れを表す。

 躊躇しないで自由に書くことにより、人間の生きるという体験の奥底にあるものを表 す。

 悟りの境地である小説を書く。

 

うーん。。。伝わってこなかったなぁ。 講義を見た後でも作品に対する評価はあまりかわらなかったし、 講義自体ちょっと作品を美化し過ぎのように思えた。

 

ちなみにこの作品、サルとディーンのラブストーリーなんだとか。でも、全くそういう風に感じなかったし、ケロアックが同性愛者と知った上で、この作品を自伝的小説として読まないとなかなかその解釈はでてこないじゃないかと思う。まぁ、ちゃんと読んでなかっただけなのかもしれないけど。

 

とりあえずABCDで評価すると、D。

 

で、結局これがなんで名作と言われているかというと、アイドルの書いてる彼ら彼女らの生活のブログって、そのアイドルに興味がない人にとってはどうでもいいのかもしれないけれど、オタクの人達にとってはそれは凄くおもしろいわけで、それと同じように、ケロアックとビートな仲間達の生き方に憧れた当時の若者達にとって、ケロアックの生活の話はたまらなくおもしろかったんだろう。 そして、そんな当時の若者達が社会的に影響力のある立場にある現在「オン・ザ・ロード」は名作だということになってしまっているのではないだろうか。

 

この本が好きな人、どこがいいのか教えてくれー!

 

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

現代の日本を代表する小説家の作品を読んでみたい。ある日、そんな欲求に駆られた私がネット検索で該当する作家を調べたところ、おそらくその作家は村上春樹であろうという結論に達した。小説をあまり読まないタイプの人間だった私ですら、「ノルウェイの森」というタイトルは子供の頃から聞き覚えがあったので、「ノルウェイの森」こそ私が読むべき村上春樹の作品であるに違いない、と考え、すぐさまこの本を購入するべく、私は意気揚々と駅ビルの中にある書店へと足を運んだ。しかし、村上春樹コーナーで村上作品の巨獣的とも言えるページ数の多さに直面し、気後れした私は、本当にこの作品を読むべきなのか購入前に今一度考えてみる事にした。それから本屋を後にした私は散歩がてらに近所のパン屋併設のカフェに立寄り、カフェオレ(店員は「ラテ」と呼んでいる)とチョコレートの入ったクロワッサンを購入し、土曜日の午後の秋風に吹かれながらアパートの方へと歩いた。土曜日の午後は何故だかいつも私をほんの少し幸せな気分にさせてくれる。私にとって土曜日は完全な平日ではなく、そして完全な休日でもない。この「ささやか」という形容詞がお似合いの幸福感はきっと土曜日のこの曖昧さからくるものではないだろうか。そんなことを考えながら自宅に戻った私はCDプレイヤーの中に入っていた「ティファニーで朝食を」のサウンドトラックを聞きながら、カフェオレとクロワッサンを楽しみつつ、村上作品の情報収集のため再びパソコンを起動させた。何かを学びたいのならその道のエキスパートから学ぶべきである、そんなソクラテスの言葉を思い出し、私はネットのハルキストと呼ばれる村上春樹ファン達の村上作品紹介ブログをいくつか読んでみた。そして私はどうやらこの「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」こそが平均的ハルキストの、どれか一つだけ村上作品を読むとすればこれだ、という作品であるということと、「終わり」という言葉の送り仮名は「り」だけとする説もあるということを知った。かくして私は、第21回谷崎潤一郎賞受賞作であり、世界の様々な言語にも翻訳されている、この上下巻あわせて1000ページ近いおそらく私が今までの人生で読んだ中で最も長い小説を読むに至り、約一ヶ月かけてこの作品を読破したのだが、この本の感想を一言で言い表すと、たいした事無い。

 

ABCDで評価するとC。

 

良い点:

・二つの話を交互に進めて行って、最後にまとめた。

 

・当時の流行がなんとなく伝わってくる。

きっと、ポール=スチュアートの洋服を着たりストラスブルグソーセージをトマトと煮込んで食べたりするのが、すごくお洒落だったんだろう。それから、そういった流行を取り入れたこの本を読む事もお洒落な事だったんだろう。

 

 

悪い点:

・内容が長さにともなっていない。

ページ数を稼ぐためだけに書いているような箇所が多い。

 

・行き当たりばったりで書いているようで、話が練られていない。

この世界の命運が主人公にかかっているという風に書き始めて、結局そうでもなかったり、計算士や記号士とは別の組織として派手に現れた二人組が、その後話に全く関わってこずに、最後、あれはやっぱり記号士でしたってことにしたり、博士から貰った頭骨が物語の重要な鍵であるという風にしておいて、ただのお土産だったってことにしたり、すごくおもしろくなりそうな期待をさせておいてガッカリさせる展開。

 

その他:

・知ったかぶりな感じが強い。

ハードボイルドワンダーランドの主人公は音楽、文学、哲学等の作品についてよく触れるが、殆ど名前を出すだけで、それらに関する優れた考察があるわけでもなく、彼からそれらに関する深い知識は感じられない。村上春樹が意図的に知ったかぶりな人間を描いているなら成功しているのだろうけれど、村上自身が知ったかぶりな人という印象を受けてしまった。ハルキスト達がこの作品を評価するのは、この作品を読む事で自分達も音楽、文学、哲学等に詳しい人間であると錯覚し、そして、そこから満足感を得ているからではないかとふと思ったりもした。

 

・ハードボイルドワンダーランドの主人公の語り口調。

個人的に「涼宮ハルヒの憂鬱」のキョンを思い出した。きっとハードボイルド小説の主人公はこういう語り口調なのだろうけど。

 

う〜ん、やっぱり「ノルウェイの森」にするべきだったのか? 「ノルウェイの森」は読んだ方がいいんだろうか?