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感想記

映画、小説、アニメ等の感想をつれづれなるままに綴っています

メヌエット ト短調 BWV Anh. 115

 

ラピュタっぽい。

 

とてつもなくラピュタっぽい。

 

と、天空の城ラピュタをなぜか思い出してしまった。私はラピュタを小学生の頃に一度しか見ていないのに。。。 不思議。あぁ、ラピュタおもしろかった。。。 滅びの呪文、ダルサだったけ? パズーがシータと一緒にあの呪文を唱えるシーン、別にパズーは唱えなくてもいいのにと見ていて恥ずかしくなったのを今でも覚えている。

 

さて、アナ=マグダリーナ=バッハのためのノートにおさめられていたこの曲、ヨハン=セバスチャン=バッハが作曲したと思われがちだけど、作曲したのはクリスチャン=ペツォルドという人らしい。有名なBWV Anh. 114もペツォルド作曲らしい。

 

素朴な感じがする美しい音楽。別に音をたくさん鳴らさなくてもいい音楽は作れるんだと教えられた気がした。

 

雨ニモマケズ

宮沢賢治の詩として知られているメモ。

 

雨ニモマケズ
 風ニモマケズ

 

 (中略)


 サウイフモノニ
 ワタシハナリタイ」

 

うん、頑張ってね。

 

ABCDでの評価はD。

 

これの何がいいのか全く理解できない。

 

ライ麦畑でつかまえて

どこかの小説ランキングサイトで一位になっていたので読んだ作品。日本語訳のタイトルからは、クライマックスで20代の男女がライ麦畑で抱き合うアメリカ南部の田舎町を舞台としたラブストーリーを想像し、原文のタイトル(The Catcher in the Rye)からは、野球の話、もしかしたらケビン=コスナー主演映画「フィールドオブドリームズ」の原作かもしれない、などと考えながら私はこの本を読み始めたのだが、実際はニューヨークに住む16歳の少年ホールデンが彼自身の数日間を語ったお話だった。

 

16歳が語っている話という設定だから、作者のJ.D.サリンジャー(女子大生ではない)は話し言葉でこの小説を書いているが、一般的なアメリカ人の16歳くらいの少年がホールデンのような話し方をするのかどうかは不明。ホールデンの話し方は確かに子供っぽい気がするけど、私にとっての一般的な16歳の話し方は"I was like...and he was like..."というように"like"を連発するような感じだから、私の頭の中の16歳の話し方とは少し違う。でも、小説が書かれた当時の16歳達はホールデンみたいな話し方をしていたのかもしれないし、ホールデンは一般的な16歳とは違うのかもしれない。

 

読んでいて私が一番気になったのは、何か一つでも好きなものを挙げてみろとフィービーに言われたホールデンが、その日の朝に出会った修道女達(特に銀縁メガネをかけていた方)と以前いた学校のクラスメイト、ジェームズ=キャッスルのことを思い出したことだった。

 

なんでホールデンはこの時修道女達とジェームズのことを考えたんだろう?

 

単純に、ホールデンが修道女達とジェームズのことが好きだったから?

 

とすれば、なんでホールデンは彼女達のことが好きだったんだろう? ホールデンが好きなタイプの人間とはどういう人達なんだろうか?

 

修道女達のでてきたくだりを見返しててみると、16章にホールデンが彼女達のことを好きだとはっきりと言っている部分があった。その部分でホールデンが話しているのは、自身の叔母やサリー=ヘイズの母親が慈善活動に参加するとしたらそれは、自分がいい人だというアピールのためとかで他人のためではないということだったので、ホールデンが修道女達のことが好きな理由は多分、修道女達が自分のためではなく人のために慈善活動をしているからじゃないだろうか?

 

ちなみに、ホールデンが弁護士になりたくない理由を話している部分があって、そこでホールデンは弁護士になって無実の罪を着せられた人を救うのはいいことだけれど、人のことを救っている弁護士が人を救いたいから弁護士をしているのか、裁判に勝って周りからちやほやされたいから弁護士をしているのかわからないから、弁護士にはなりたくないと言っている。ということで、ホールデンは、純粋に人のためにそれをしたいという気持ちから、そのことをしている人が好きなのだろう。

 

(なんかカントの倫理っぽい。興味がある人は「Groundwork for the Metaphysics of Morals」のmorally praisewrothyということについて書かれてある所を読みましょう。)

 

次、なんでホールデンはジェームズ=キャッスルのことが好きだったのだろうか?

 

キャッスルについてホールデンが語った事を挙げると、キャッスルは

 

ホールデンの以前行っていた学校の同級生だった。

・弱々しい感じの目立たない生徒だった。

・あまりホールデンとは親しくなかった。

・フィル=スタビールというイヤミな感じの生徒について「スタビールはイヤミな人間だ」といったような趣旨の発言をした結果、スタビールとその仲間達に部屋に監禁され、発言を訂正するように強要された。しかし、それには応じず窓から飛び降りて死んだ。

 

ここからうかがえるホールデンがキャッスルを好きな理由は、キャッスルが暴力に屈して正しい意見をねじ曲げるということをしなかったからではないだろうか?(もちろん、キャッスルのスタビールに対する考えが本当に正しいものだったかったかは分からないけれど、ホールデンもスタビールを嫌なやつだと感じていたようなので、彼はキャッスルの意見を正しいものと考えていたのだろう。)

 

ということで、ホールデンは正しい事を正しいと言える人達がお好き。

 

うーん、ホールデンが好きなタイプの人間はひとくくりにできるんだろうか? phony(ホールデンがよく使う言葉)じゃない人達ってことなんだろうけど。ちょっといいまとめ方が思いつかない。

 

さて、正しい事を正しいと言っていたり、人のためになるからという理由でなにかをしている人達が幸せになれるかというと、そうではないのかもしれない。善人よりも悪人の方が楽しく生きているということは多々あることなのかもしれない。ホールデンはそのことに対して理不尽さを抱いていたんじゃないだろうか?

 

キャッスルが死んだのにもかかわらず、スタビール達は学校を退学になっただけで、刑罰を受ける事はなかった。ホールデンはこのことに憤りを感じているようだったし、ホールデンは修道女達が高級なお店で食事をする機会がないということが悲しいと言っていた。人のために何かをしている人が経済的に裕福ではないことが不公平に感じられたからではないだろうか?

 

(正しい事をしている人が必ずしも幸せであるとは限らないのは不公平だ、だから、天国でその不公平を解消する神様がいるに違いない、といったカントの考えを思い出してしまった。興味がある人は「Religion within the Limits of Reason Alone」を読みましょう。J.D.サリンジャーはカントの本を読んでいたんだろうか?)

 

ホールデンはこのよう不公平を是正したいと思っていたのではないだろうか? 少なくとも、キャッスルのような人を救いたい、ホールデンの頭の中で学校の寮の部屋から落ちて行くキャッスルがライ麦畑の崖から落ちて行く子供になって、また、それに対しなんとかしたいという気持ちから、ホールデンライ麦畑の崖から落ちようとする子供を救う人(the catcher in the rye)になりたいと言ったのではないだろうか?

 

こう考えると、この小説の世界観、暗い。純粋に人のためになにかをしている人達は貧しい生活を送り、正しいことを正しいと言った人間は死に、そういった人達を救いたいと思う人間、ホールデンも異常者として精神病院に送られ、そこでこの話をしている。うん、暗い。

 

付け加えると、ホールデンが精神病院に送られたのもキャッスルのように正しい意見を述べた結果じゃないだろうか? 25章で、ホールデンは5番通りの歩道をおりた時に、どこかへずっと落ちて消えてしまう気がしたと言っていた。ホールデンも自身がキャッスルのようにライ麦畑の崖から落ちそうな子供だと感じていたんじゃないかな? それから、歩道を降りてから消えずに道路をわたりきった時、ホールデンはアリーに感謝していたけれど、ということはthe catcher in the ryeはアリーのことなのだろうか?

 

 

気になった事、その2

 

カール=ルースは年上の中国人女性とつきあっているが、ホールデンはルースをゲイじゃないかと疑っていた。

 

ミスターアントリーニも年上女性と結婚しているが、ホールデンに性的興味あり。

 

ということは、この小説の世界の中では、年上の女性に関心がある男性は男性にも性的関心がある?

 

おやっ。。。 ホールデンは電車の中で会ったアーネスト=マーロウの母親に性的な興味があると言っていた。となるとホールデンも実は男好き? 結局、サニーとセックスしなかった理由はそれ?

 

そういえばホールデンは二人の修道女のうち特に銀縁メガネの方が特に気になっていた、それから、この修道女について、彼女はマーロウの母親に似ているとも言っていた。うーん、どういうこと?

 

ゲイの男性が同性愛に対して寛容でない社会において、それを否定するために女性とつきあうようような感じなんだろうか? 実際は、ゲイ、でも認めたくない、もしくは世間体のために、ゲイじゃないふりをして女性と付き合う、それがカール=ルースとミスターアントリーニがやっていることなんだろうか? ホールデンも女性に興味があるふりをしたかったんだろうか? 修道女とならセックスはない。しかも、マーロウの母親似でセクシーな見た目ってっことで女好きアピールにはちょうどいい。だから気になってたってことなの? それとも、カール=ルースもミスターアントリーニもホールデンも、みんなただ単にバイセクシャル

 

 

というわけで、この作品はよく考えて書かれているようだけど、別に読んでいてそれほどおもしろいとは思わなかったので、ABCDでの評価はC。ちょっと厳しめかな?

 

その他、考えたらおもしろいかもしれないこと:

 ・なんで赤いハンチングハット?

 ・セントラルパークのアヒルは冬の間どこに行くんだ?

 ・ホールデン性的虐待を学校で何度も受けていたのか?

 ・ホールデンが彼の話の登場人物達を恋しく思ったのは何故?

 ライ麦畑で崖から落ちそうな子供と関連させて、

 ・ミスターアントリーニの紙に書いたアドバイスについて

 ・メリーゴーランドから落ちそうな子供には何も言わない方がいいとホールデンが思っているのは何故?

 

他にも色々考えて遊べそうだけど、今はそこまでしたいとは思わないかな。

 

オン・ザ・ロード

"We've got to go someplace, find something."

 

Yea, because we ain't gonna find nothing on the road!

 

文学部出身の友人の一押し作品であるジャック=ケロアックの「オン・ザ・ロード」。

つまらなかった。本当に本当に本当に、つまらなかった。あまりにつまらなかったのでちょっと読んで止めて放置、を繰り返し、読むのに一年以上もかかってしまったというほどつまらなかった。

 

M月D日にPへ行ってAをした以外の内容のないブログをひたすら読んでいるような、オチのない話を永遠に聞かされているよな、「ただ書きゃいいってもんじゃないよ!」といったような、この本を読む事、それすなわち苦行、といったような、ヒットラーの考えた拷問じゃないかと疑ってしまうような、つまらない本の代名詞とでも言うべき作品だった。

 

しかし、この作品なぜだか名作といわれている。それが何故かを理解するために、この作品に関する講義を見てみたところ、色々とケロアックがやろうとしていたことがわかった。

 以下、その内容のいくつか:

 

 実体験をできるだけ複製したような小説を書く。

 実体験のあらゆる要素を組み込む。

 時間と同じ早さで進んで行く言葉で書く。

 頭の中の人間の意識の流れを表す。

 躊躇しないで自由に書くことにより、人間の生きるという体験の奥底にあるものを表 す。

 悟りの境地である小説を書く。

 

うーん。。。伝わってこなかったなぁ。 講義を見た後でも作品に対する評価はあまりかわらなかったし、 講義自体ちょっと作品を美化し過ぎのように思えた。

 

ちなみにこの作品、サルとディーンのラブストーリーなんだとか。でも、全くそういう風に感じなかったし、ケロアックが同性愛者と知った上で、この作品を自伝的小説として読まないとなかなかその解釈はでてこないじゃないかと思う。まぁ、ちゃんと読んでなかっただけなのかもしれないけど。

 

とりあえずABCDで評価すると、D。

 

で、結局これがなんで名作と言われているかというと、アイドルの書いてる彼ら彼女らの生活のブログって、そのアイドルに興味がない人にとってはどうでもいいのかもしれないけれど、オタクの人達にとってはそれは凄くおもしろいわけで、それと同じように、ケロアックとビートな仲間達の生き方に憧れた当時の若者達にとって、ケロアックの生活の話はたまらなくおもしろかったんだろう。 そして、そんな当時の若者達が社会的に影響力のある立場にある現在「オン・ザ・ロード」は名作だということになってしまっているのではないだろうか。

 

この本が好きな人、どこがいいのか教えてくれー!

 

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

現代の日本を代表する小説家の作品を読んでみたい。ある日、そんな欲求に駆られた私がネット検索で該当する作家を調べたところ、おそらくその作家は村上春樹であろうという結論に達した。小説をあまり読まないタイプの人間だった私ですら、「ノルウェイの森」というタイトルは子供の頃から聞き覚えがあったので、「ノルウェイの森」こそ私が読むべき村上春樹の作品であると私は反射的に思い、すぐさまこの本を購入するべく意気揚々と駅ビルの中にある書店へと足を運んだ。しかし、村上春樹コーナーで村上作品の巨獣的とも言えるページ数の多さに直面し気後れした私は、本当にこの作品を読むべきなのか購入前に今一度考えてみる事にした。それから本屋を後にした私は散歩がてらに近所のパン屋併設のカフェに立寄り、カフェオレ(店員は「ラテ」と呼んでいる)とチョコレートの入ったクロワッサンを購入し、土曜日の午後の秋風に吹かれながらアパートの方へと歩いた。土曜日の午後は何故だかいつも私をほんの少し幸せな気分にさせてくれる。私にとって土曜日は完全な平日ではなく、そして完全な休日でもない。この「ささやか」という形容詞がお似合いの幸福感はきっと土曜日のこの曖昧さからくるものではないだろうか。そんなことを考えながら自宅に戻った私はCDプレイヤーの中に入っていた「ティファニーで朝食を」のサウンドトラックを聞きながら、カフェオレとクロワッサンを楽しみつつ、村上作品の情報収集のため再びパソコンを起動させた。何かを学びたいのならその道のエキスパートから学ぶべきである、そんなソクラテスの言葉を思い出し、私はネットのハルキストと呼ばれる村上春樹ファン達の村上作品紹介ブログをいくつか読んでみた。そして私はどうやらこの「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」こそが平均的ハルキストの、どれか一つだけ村上作品を読むとすればこれだ、という作品であるということと、「終わり」という言葉の送り仮名は「り」だけとする説もあるということを知った。かくして私は、第21回谷崎潤一郎賞受賞作であり、世界の様々な言語にも翻訳されている、この上下巻あわせて1000ページ近いおそらく私が今までの人生で読んだ中で最も長い小説を読むに至り、約一ヶ月かけてこの作品を読破したのだが、この本の感想を一言で言い表すと、たいした事無い。

 

ABCDで評価するとC。

 

良い点:

・二つの話を交互に進めて行って、最後にまとめた。

 

・当時の流行がなんとなく伝わってくる。

きっと、ポール=スチュアートの洋服を着たりストラスブルグソーセージをトマトと煮込んで食べたりするのが、すごくお洒落だったんだろう。それから、そういった流行を取り入れたこの本を読む事もお洒落な事だったんだろう。

 

 

悪い点:

・内容が長さにともなっていない。

ページ数を稼ぐためだけに書いているような箇所が多い。

 

・行き当たりばったりで書いているようで、話が練られていない。

この世界の命運が主人公にかかっているという風に書き始めて、結局そうでもなかったり、計算士や記号士とは別の組織として派手に現れた二人組が、その後話に全く関わってこずに、最後、あれはやっぱり記号士でしたってことにしたり、博士から貰った頭骨が物語の重要な鍵であるという風にしておいて、ただのお土産だったってことにしたり、すごくおもしろくなりそうな期待をさせておいてガッカリさせる展開。

 

その他:

・知ったかぶりな感じが強い。

ハードボイルドワンダーランドの主人公は音楽、文学、哲学等の作品についてよく触れるが、殆ど名前を出すだけで、それらに関する優れた考察があるわけでもなく、彼からそれらに関する深い知識は感じられない。村上春樹が意図的に知ったかぶりな人間を描いているなら成功しているのだろうけれど、村上自身が知ったかぶりな人という印象を受けてしまった。ハルキスト達がこの作品を評価するのは、この作品を読む事で自分達も音楽、文学、哲学等に詳しい人間であると錯覚し、そして、そこから満足感を得ているからではないかとふと思ったりもした。

 

・ハードボイルドワンダーランドの主人公の語り口調。

個人的に「涼宮ハルヒの憂鬱」のキョンを思い出した。きっとハードボイルド小説の主人公はこういう語り口調なのだろうけど。

 

う〜ん、やっぱり「ノルウェイの森」にするべきだったのか? 「ノルウェイの森」は読んだ方がいいんだろうか?