感想記

ネタバレ注意。乾燥注意。

地下室の手記

ドストエフスキーの小説「地下室の手記」を読んでのあれやこれや。

 

 

 1.どこが始まり?

 

この手記の作者とこの手記自体はフィクションです、第一部にはこれこれこういうことが書かれてあり、第二部ではこういうことが書かれています、といった「作者のメモ書き」と書かれた序文から、この本は始る。

 

で、ここでいきなり疑問が湧く。この部分は既に小説の一部なのだろうか? このメモ書きを書いた作者は誰って考えればいいのだろうか?

 

勿論、ドストエフスキーが書いてるんだけど、ドストエフスキードストエフスキーとして、小説の紹介文のような形で小説の枠外で書いているのか、それとも、序文も既に小説の一部で、ドストエフスキーのキャラクターである架空の作者が、この序文は書いているのか? うん、気になる。

 

折木さん、私、気になります!(私はアニメ「氷菓」をお勧めしているわけではない)

 

私の考えは、序文も既に小説の一部で、書いているのはドストエフスキーではなく、小説の中の架空の作者だ、というもので、その理由は、序文にはドストエフスキーの署名がなく、「作者のメモ」という表記がされているから。序文が小説の枠外のドストエフスキーだったら、自分の名前を書いておいたんじゃないだろうか?

 

また、序文が架空の作者によるものなら、同じように、この本の締めくくりの部分に書かれている、この手記の作者はいっぱい言いたいことがあるようで、この手記は本当はもっと続いていますが、もうこの辺でお開きにしましょう、といった台詞も、この架空の作者が書いたものとするのが妥当だろうと思う。

 

で、この本の構造をまとめると、ドストエフスキーが書いた「地下室の手記」という小説が大枠であって、その大枠の中で、架空の作者が、フィクションの手記を書いて、その手記の枠の中で、「私」という人物があれこれ言っている、という風になる。

 

ちなみに、ドストエフスキーは同じような手法を「カラマゾフ兄弟」でも使っていて、「カラマゾフ兄弟」の出だしでは、これはアリーシャの若いころの話です、私が話 したいのはアリーシャがもう少し年をとってからの話なんですが、その話をするためには、アリーシャの若い頃の話から始めなければなりません、っていうようなことが書いてあった。この序文もドストエフスキー本人の発言ではなく、彼のキャラクターである語り手によるものだと私は考えている。もう一つちなみに、ドストエフスキーは、アリーシャが登場する「カラマゾフ兄弟」のその後の小説は書いていない。書く気があったらしいということは聞いたことがあるけど。

 

 

2.序文の作者=「私」?

 

さて、折木さん、もう一つ気になることがあります。

 

この手記の作者って、本当に、この手記の中の「私」とは違う人物なんだろうか?

 

実はこの二人は同一人物なんだけれど、作者はこの手記の内容を公にするのに恥じらいを感じたり、自分が言っていることが真実ではないかもしれないと疑ったから、わざわざ序文で、これは全部フィクションです、って言って、あたかも自分自身の話ではないってことにしたんではないかと私は思っている。

 

で、その根拠になるのが第1部11章。ここには「私」がこの手記を書いた理由が書かれていて、その理由はというと、

 

自分が避けていた過去の出来事を誤摩化さないで、ちゃんと思い出して書いて、それらの出来事に対する客観的な説明をするため。また、そうすることで、その嫌な記憶から解放されると思ったため。

 

でも、嫌な思いでをちゃんと思い出すのは難しい、しかも、それを文章で書くのはもっと難しい事だと思う。それは「私」も感じていたことのようで、第1部11章で「私」は自己自伝について、みんなかっこつけて、自分の都合のいいように、過去を書き変えちゃうものだ、と話していた。

 

でも、「私」は真実を書きたかったんだと思う。そして、そうしようとしていたんだと思う。これに関する「私」の葛藤は、ライザの手にお金を渡すシーンなんかでも書かれてあったことだし。

 

「私」が、自分の話は全部うそです。信じてはいるけど嘘だと疑っています、というようなことを同じ11章で言っていたことも、それ以外のあちこちで、嘘でしたー、って言っていたことも、上記の説明で納得できるのではなかろうか?

 

というわけで、真実を書こうとしたものの、本当にこれが真実だったか、「私」が疑ったから、この手記を書いた後で、やっぱり、これはフィクションでした、ってことに「私」はした、というのが私の意見。

 

でも、この手記って「私」が自分自身の過去と対峙するために書いただけなんだったら、これはフィクションです、なんて序文をわざわざ書く必要があったんだろうか? 自分のためのもので、他人に見せるものでないなら序文は不用に思える。 

 

序文をもう一度見てみると、作者がこの手記をかいた理由は、ちょっと前までよくいたある種の典型的な人間がどういう人間かということをより明確にみんなに伝えるため、とかなんとか書いてある。これって、「私」の11章での、この手記は誰かに見せるものじゃなくて、「私」のためだけに書いたものだ、っていう発言と完全に食い違っている。

 

 やっぱり、序文の作者と「私」は別人じゃないの?

 

と、お思いのみなさん、そうではございません!

 

2章で「私」が話している、ある種の快感について書かれている部分を思い出してくださいませ。最低な振る舞いをして、それを恥ずかしいと思うものの、それがだんだん快感になっていたと「私」が言っている部分です。ここで、「私」は、この快感を自分以外の人達も感じているか知りたいから、この話をしたと言っています。さらに、「私」は、なぜ最低なことをして快感が得られるのか、それを説明するために筆を取った、とも言っています。

 

というわけで、「私」は当初自分自身のためだけに、この手記を書いていたのだけれど、書いた後で、その一部を公にしようと決めたのではないでしょうか? で、「私」がこの手記を公にすることにした理由は、公にすることで、このある種の快感ををみんなが感じているかを読者の反応から伺うため、と、それから、「私」が考えた、この快感が何故起こるかということに対する説明を人々に見せびらかしたい、と「私」が感じたからではないでしょうか?

 

しかし、その上で自分の醜態をさらすのには気がひける、だから、この話は私自信の話ではありません、フィクションです、ということを序文で書いたんじゃないでしょうか?

 

で、こう考えることには、もう一つ利点があって、それは、序文の作者=「私」と考える事によって、なんで第2部の冒頭にネクラソフとかいう人の詩が載せてあるのかという事の説明がそれによってつくことなのです。ええ、そうなのです。

 

 

3.ネクラソフの詩

 

この詩を見てみると、なんとなく、ライザと「私」との間の出来事に似ていないだろうか?

 

前半部分を見ると、なんとなく、売春宿での「私」による嫌がらせの長い説教の後に、ライザが絶望して泣いていた部分に似ている。

 

でも、後半の、君は君の悲惨な状況を私に見せた、とか、屈辱的な状況を思い出して君は顔を隠した、とか言っている部分は、ライザが家に来てしまって、かっこつけてたのに貧乏がバレてソファで顔を隠して泣いていた「私」の状況に似ている。

 

で、詩の中の「私」と「君」のどっちがライザでどっちが「私」(手記の「私」)なのかは、さておき、この詩って、誰がこの本の中に載せたんだろうか?

 

手記の「私」が、自分のためだけに書いている手記に、わざわざこの詩を載せる理由はあまりないような気がする。とすると、載せたのは序文の作者ということになるんだけど、じゃあ、なんで序文の作者はこの詩を第2部の頭にもってきたんだろう?

 

私の答えは、この手記がフィクションであることをより強調するため。読者のみなさん、この話を実話だと思わないでくださいね、この話はネクラソフの詩からヒントを得て書いた作り話ですよ、自分はこんな恥ずかしい体験してませんからね、ということを序文の作者が読者に納得させるために、この詩は掲載されたんじゃないだろうか?

 

「私」は、よく小説や詩から色んなことをパクって、自分の妄想の中で使っていると言っていたし、売春宿へ向かったツバコフ達を追いかける途中で計画した彼に対する復讐も小説からパクったものだと言っていた。 こうやって、文学に精通していて、それを様々な用途で使っている「私」が、自分の真実の手記をあたかも作り話と見せかけるために、実際に起こった出来事になんとなく似たこのネクラソフの詩をこの本の中に組み込んだとしても、そんに不思議なことではないんじゃないだろうか?

 

しかも、もし、序文の作者と「私」が別の人間だったとしたら、また、「私」が序文の作者の創作だったとしたら、この詩が第二部の頭の部分にある理由って何なんだろう?

 

ネクラソフの詩がこの本に出てくる理由を一番よく、もしくは、おもしろく説明するには、序文の作者=「私」と考えるのが良いのではないだろうか?

 

 

4.快感

 さてさて、さっき出てきた、ある種の快感について考えてみよう。

 

この快感について第1部の2章に、この快感は堕ちるとこまで堕ちたけど、それについて、どうしようもない、ということからくる快感で、「私」のように物事を分かりすぎる人間が、これを感じるのは当然で、それに対して「私」が、どうしようもない、ってなるのも当然の結果だ、というようなことが書いてあった。

 

で、「私」が何を言っているかというのを解釈するにあたって、Determinism(とりあえず決定説と呼んでおく、一般的にこれがどういう風に日本語訳されているのか私は知らないし、めんどくさいので調べたくない)という説について、少々お話しなければなりませぬ。うん、お話した方がいいんじゃないだろうか。殆どみんなが知っていることなんだろうけど、私のお友達で知らない人がいたので一応書いておく。なので、誰でも知っているようなことを、私がこれ見よがしに書いているとは思わないで頂きたい。

 

 で、決定説とは何かというと、世の中に起こる出来事は、自然の法則と、その出来事が起こる前の世界の状況によって、全部どうなるか決まっているという考え。

 

世の中に起こることって、自然の法則にのっとて起こるわけだから、ある時点での世界の状態から次の状態、それからまたその次の状態、さらにその次の状態に移行するのって、全部自然の法則にのっとて決まっちゃってるわけで、で、そうすると、人間が何考えてどういう行動にでるかとかも全部決まっちゃってるっていう。。。 うぎゃー、私は自分の意志で自由に行動してると思ってたのにー! 全部決まってたら、自由じゃないじゃん。わしゃ、ロボットかー!

 

というわけで、この決定説のおかげで、「私」が最低なことをするのも、それは自然の法則と過去の世界の状態によって決まっていたわけで、どうしようもないことだ、ということになる。「私」の話している快感はこのどうしようもなさに由来しているんだと思う。

 

で、この路線で、3章、4章、5章辺りで「私」が言っている事を、もう少し分かり易く言い直すと、

 

決定説のおかげで、何もかも全部決まっていたとしたら、たとえ誰かが自分に対して極悪なことをしたとしても、それは全部決まってたことで、仕方ないわけで、その相手の責任を追求したり復讐したりするのも、仕方ないんだから、なんか違うなって感じだし、でも、腹が立つのは腹が立つし、自然の法則に文句言っても仕方ないし、だから、もう、なにもできません! 自分が誰かから被害を受けても、そんなの、どうしようもない歯の痛みみたいなもんじゃん! うぎゃー、って言うしかないじゃん。そんでもって、うぎゃーって叫んだ結果、その声がうるさいって、誰かの迷惑になるのもしゃーないやん。さらに、誰かが迷惑がってんのを、なんかおもろい、って思ってまうんもしゃーない。「私」が最低なことするのも一緒。決まってしまってるんやし、しゃーないやん。そう、しゃーない、しゃーない、何やってもしゃーない。だから、もう諦めます。もう何もしません! うん、でも、それはそれで、暇すぎて。。。 結果、「私」は普通の人っぽく、あんまり考えないで、感情に流されて生きてみようともするんだけど、結局、嘘ってわかってるから、なんか気持ち悪くなってまう。

 

さて、決定説のおかげで、自分が最低な事をするのは仕方が無いことだ、と「私」自信が考えていることは分かるけれども、でも、それが何で快感なんだろうか?

 

あぁ、自分は最低だ、でも、どうしようもない、他にやりようがない、もう笑うしかない! というような感覚が「私」の話している快感なのだとしたら、それは、なんとなく理解できるんじゃないだろうか? 今、この文章を読んでいる人も多分感じたことがあるんじゃないだろうか? どうしようもない悲惨な状況って、悲しいのと同時に、なんとなく滑稽に思えてしまう。(こんな感覚だれも感じてなくて、私も「私」同様のヤバいやつだったら、どうしよう。。。 あなたも分かりますよね、この感覚。分かると言ってくれ。。。)

 

でも、なんで人間はそんな風に感じるだろう?

 

5.快感 その2

 一旦、この小説を置いておいて、説明を試みたいと思う。私の個人的な見解を凄く単純に言うと、この快感は、自分を客観視して、自分自身を不幸な第3者として見る事により、自分が第3者としての自分に感じる優越感からくる快感である。

 

もう少し賢そうなことを言ってみよう。人間の自我は元々、他人の置かれている状況、彼らの表情、声のトーン、話の内容など、様々な情報をそれぞれ受け取る脳の専門機関(module)から個別に発信される情報を受け取り、それらをまとめて分析し、他人が次にどういう行動をとるかという事を予測する機関(the mind reading module)が、自分自身の言動等の情報に向けられる事により生まれたものなので、人間は常に自分を第3者としてみている。だから、悲惨な状況下におかれた自分のことも第3者として認識しており、その認識からくる情報が、他人と自分との社会的地位を分析する機関(the social status module)に送られ、そこで、その第3者として扱った自分の社会的な地位が、自分の地位より下がった、つまり、自分の地位が上がったという判断が生まれ、これにより快感が生まれることがある。この快感こそが、絶望的な状況における、もう笑うしか無いという感覚なのである。

 

で、この説が正しいなら、社会的地位に関心が低い人間は、もう笑うしか無い感覚をあまり感じないということになるんじゃないだろうか? そういうデータは無いのかなぁ? あったら、教えて!

 

(お気付きの人もいるかと思うが、私はかなりPeter Carruthersの本に影響を受けている。)

 

 

6.快感 その3

さて、「地下室の手記」に話を戻そう。

 

私の解釈では、第1部7、8、9章辺りで「私」が話していることは、このある種の快感はなぜ起こるのかという問いへの「私」の答えなんだけれども、っこれを説明するのに、まず、7章の冒頭から出てくる、知ってて悪い事をするやつはいない説について話をしたいと思う。

 

イヤイヤ、知ってて悪い事するやつなんていっぱいいるじゃん。強盗って悪い事だよなぁ、でも、お金欲しいから盗んじゃおう! とか、お酒は飲み過ぎるといかんなぁ、でも、飲みたいし飲んじゃおう! とか、欲望に負けるやつイッパイいるじゃん。

 

なんてことを言っていると、ソクラテスがやって来て、

 

マジで言ってるの? 欲望に負けるって、お金とかお酒とかで得られる楽しさに負けてるって言ってるわけでしょ。てことは、盗んだお金とか飲み過ぎとかで得られる楽しさっていうか、まぁ、利益とぉ、それで得る不利益、嫌な思いするとかそういうこととを比較して、利益の方が多いって考えたってわけでしょ。でもさぁ、強盗とか飲み過ぎはさぁ、みなさんご承知のとおり本当に悪い事なんだよねぇ、でもさぁ、それって、不利益ってことでしょ。嫌な思いするから悪いことなんだよねぇ。そうでしょ。それ以外の理由ある? 倫理的に悪? え、じゃあ、倫理的に悪って何? なんでそれがダメなの? 結局、自分に不利益だからじゃないの? 嫌な思いするからじゃないの? それ以外の理由ないよね。うん、だからさ、知ってて悪い事するやつって、利益と不利益の比較をキチンとできなかったってことだよね。それって、計算の仕方を知らなかったってことだよね。じゃあ、単なる無知じゃん、知っててじゃなくて、知らなくてってことじゃん。でさぁ、せっかく、こんな話してるんだから、ここでやめにしないで、ついでに利益ってなにかについて考えてみようよ!

 

というような具合に絡まれることでしょう。(これについて興味がある人はプラトンの「Protagoras」を読んでみよう。「氷菓」と違って、こっちはお勧め。)

 

 

で、 この説が、堕ちるとこまで堕ちることで得られる、あのある種の快感とどう関係しているかというと:

 

この説によると、人間みんな、自分にとって不利益なことはしない、でも、「私」は第2章に書いてあるような最低なことをする人間だ。なぜ「私」はそんなことするの?

 

答え: 最低なことをすること、また、それによって得られる快感こそが人間にとっての真の利益だから。

 

付け加えると、最低なことこそが、実は、最高なことで、そういうことをしない人達、「私」とは違う普通の人達は、自分達にとっての真の利益を知らない無知な愚か者だ!

 

でも、最低なことをすることが、なぜ人間にとっての真の利益だなんて言えるの?

 

答え: 知識による判断で、理にかなった最善な選択をし続けて、みんなが豊に平和に、つまり、幸せ暮らすことは可能かもしれないし、それは一見人間の利益に思えるかもしれない。でも、そんなの本当の利益じゃない。そんな生き方、理にかなった行動ロボットみたいじゃん。まるでピアノの鍵盤じゃん。人間にとっての真の利益は、好き勝手にすること、わざと最低なことをして、嫌な思いして、不利益を得て、それによって、自分がピアノの鍵盤じゃないってこと、理にかなった行動ロボットじゃないってこと、さらに、自由であることを証明することなんだ!

 

ということなんだと思う。

 

というわけで、ある種の快感はなぜ起るのか? この問いに対する「私」の答えは、最低なことをすることで、「私」は自分の自由を証明することができる、これを証明することは人間の真の利益である、この真の利益を得たという喜びこそがあのある種の快感の正体なのである。

 

いかかがでしょうか? 私の解釈は納得のいくものでしょうか?

 

ちなみに、もし決定説が正しいなら、例え、理にかなってない、自分にとって不利益なことをしても、結局、それも決定されていたことなのだから、理にかなっていない事をするということが「私」が自由であるという証明になるかというと、それには疑問を感じざるを得ない。 おそらく、「私」にとっての自由は、理にかなった行動ロボットではない、というだけのことだったのだと思う。

 

 

 

7.言い訳

 今まで見てきたように、「私」にとって、クズな行動をとることは、自分が自由であるという事の証明である、ということのようなんだけど、でも、この考えって、結局、言い訳であり、現実逃避のための嘘だ、というふうに「私」自信が考えているんじゃないだろうか?

 

この解釈の根拠として私が提示したいのは第2部の一番最後の部分で、そこで「私」は、我々はみんな現実からひきはなされてしまっていて、結果、現実は気持ち悪くなって、辛過ぎるものになっているので、本の方がいいと思ってしまっている、と言っている。本というのは、別の部分で「私」がよく逃げ込んでいたと言っていた夢、だとか、美と壮大さ(the beautiful and sublime)の世界、つまり、虚構の世界のことなんだと思う。そう考えると、この部分で「私」は自分の現実があまりにも悲惨なので、現実逃避して虚構の世界に生きようとしているということを認めている、とゆうように思える。

 

で、この現実逃避のエピソードして「私」は、ライザとの一件を、その後、家で考えた(私の言葉で言うと、「夢の世界に入った」)時のことを話したんだと思う。この部分で、「私」は、

 

ライザは自分に対して怒りを感じている方が彼女のために良い、侮辱されたと感じている方が良い、というのも、侮辱されたという気持ちは彼女を憎しみと許しにより高める

 

なんてことを言っている。どういうことかというと、

 

ライザが侮辱されたという怒りを感じ続けたなら、それは彼女にはプライドがあるからであり、売春をしなければならないという彼女の状況において、プライドを持ち続けるというのはいいことで、さらに、ライザがいつの日か「私」を許そうと思えたなら、それにより彼女は寛大さを手に入れ、人として成長できる。そう、私は彼女に対し、大変素晴らしいことをしたのだ。

 

といようなことなんだろうけど、でも、これってやっぱり、現実逃避のためのただの言い訳で、結局、嘘でしかないと「私」自身分かっていて、だから、ライザとの一件の後、「私」はあまりにも自分が嫌で病気になりそうだった自分で認めていたんだと思う。

 

(このあたりは「罪と罰」に似ている。ラスコワニコフも質屋の老女を、なんやかんや大げさな言い訳っぽい理由で殺して、その後、罪の意識に苛まれて、ボロボロな精神状態になっていったわけだし。)

 

これを踏まえると、この手記は一言で言うと言い訳なんだと思う。真の利益がどうのこうのとか、「私」は大げさなことを言っているけど、結局、自己嫌悪から生じた自分に対する言い訳なんじゃないだろうか?

 

で、ドストエフスキーがこの小説で言いたかったのは、言い訳しないで現実と向き合え!、ということなんじゃないだろうか? まあ、私は当時のロシアの状況だとか、ドストエフスキーについてのこととかを、あまり知らないので、彼がこの小説で何を言いたかったかは、正直、よくわからないんだけど。

 

 

8.総評

この本は読んでいておもしろかったし、色々考えて遊べたので、ABCDでの評価はA。

 

 

 このブログエントリーを最後まで読む人はいるんだろうか? いたら、ありがとう。 

 

 

 

気狂いピエロ

2ヶ月程前、いきつけの輸入食品雑貨店の店員が、私はゴダールという監督の映画をおもしろいと思うかもしれないと、彼の「気狂いペエロ」という作品を勧めてきた。今回はこの作品についてのあれやこれや。

 

 ベラスケス

映画の冒頭で、主人公は美術についての本を音読していたのだが、その内容は大体次ぎの通り。

 

晩年のベレスケスは絵の対象をきちんと描かずに、空気や黄昏の色で対象を描いた。背景の影や色で人々を感動させた、それが沈黙の交響曲の核だ。彼の世界はフォルムと色の不思議な感覚だけ。それはひそかに進歩を続ける。空間が息づく、大気の波のように、湧き出たものが事物を形作っていく。そして香りのように拡散する。 (めんどくさかったので完全には書き写してはいない)

 

多分、この映画は、こういった絵画の表現を映画で再現しようとしたものなんだと思う。ベラスケスが絵の対象をはっきりと描かずに、色やフォルムの不思議な感覚だけで人々を感動させたように、ゴダールも、はっきりとストーリーが分かる映画ではなく、断片的なシーンの不思議な感覚だけの映画で人々を感動させようとしたのではないかと思う。

 

ここには「それはひそかに進歩を続け。。。」ともあるが、おそらく、ゴダールは、この映画の断片的なシーンが鑑賞者の中に様々な解釈を生み出すということを言いたいのではないのかと思う。主人公フェルディナンは、絵の解釈は鑑賞者が決める、とかなんとか言う台詞もあったことだし(少し探したが、見つけられなかったので、どことは言えないけど)、映画の解釈も鑑賞者が決めるものなんだ、ということなんだろう。

 

さて、ここで述べられているベラスケスの晩年の作品がどういうものなのか気になったのでネットでベラスケスの絵を見てみたが、フェルディナンが読んでいる本の作者がどの作品について書いていたのかよくわからなかった。
 

「The Fable Of Arachne」や「Villa Medici, Pavillion of Ariadne 1630」が、本の著者の念頭にある絵のような気もするが、前者に関しては、画面中心の人物の顔以外は、はっきりと描かれていたし、後者に関しては、人物が空気の色で描かれているような気もしなくはないが、ベラスケスは1660年まで生きているので、多分、晩年の作品ではない。

 

というわけで、イマイチ本の著者がどの絵について話していたのかよくわからなかった。多分著者の言う、対象をはっきり描く、ということと、私が考えていたそれとの間に隔たりがあったのだろうけど、でも、映画に関する解釈はそんなに間違っていないんじゃないだろうか? まぁ、解釈は鑑賞者が決めるものならば、間違っているとか正しいとかいうこは、映画の解釈に当てはまるような物ではないのかもしれないが。

 

(余談ではあるが、Joel-Peter Witkinがベラスケスの「Las Meninas」を元にして作った写真は素晴らしい。Witkinの作品は殆ど全部素晴らしい。)

 

 

映画とは?

フェルディナンはパーティーで出会ったアメリカ人の映画監督に、映画とは何か?、と聞いているシーンがあった。それに対し、監督は映画とは、闘いの場、愛、憎しみ、アクション、暴力、死、一言で言うと感情だ、と言っていた。

 

この発言を元に、この映画を考えると、この映画は、闘いの場、愛、憎しみ、etc.の寄せ集めとして見る事ができると思う。

 

でも、アメリカ人監督の発言に対し、フェルディナンは、「あっ、そう」と言わんばかりに、彼との会話をそれ以上続けなかったし、パーティーにいた人間はバカばかりだ、と家に戻ってからマリアンヌに言っていた。

 

ということは、この映画は、映画とは闘いの場、愛、憎しみ、etc.という考えに対する批判なのだろうか? だとしたら、ゴダールのやっていることは、闘いの場、愛、憎しみ、etc.だけの映画を作って、それがどれほどつまらないものなのかを鑑賞者に見せているということなんだろうか?

 

 

物語と人生

フェルディナンが車でマリアンヌを家まで送っているシーンで、マリアンヌが、人生も物語のように明確で論理的で整っていればいいのに、と言ったのに対して、フェルディナンは、物語と人生は意外に違わない、と言っていた。

 

物語と人生とが意外に違わないというのはどういうことなんだろう?

  1.  物語も人生同様、明確ではなく、論理的に整っていない?
  2.  人生も物語同様、意外に明確で論理的に整っている?

 

可能性1だとして考えると、

この映画は明確ではないし、物語も論理的に展開していないので、この映画は可能性1の例であり、マリアンヌの意見に対する反例みたいなものなのかもしれない。もちろん、マリアンヌの意見が既存の物語に対してのものなら、新しく可能性1的な物語を作っても、それではマリアンヌの意見が間違っているということにはならない。

 

可能性2だとして考えると、

人生はこの映画と比べると、よっぽど明確で整っている。したがって、人生は意外に一般的な物語と同様に論理的で整っている、ということになるんだろうか?

 

 

総評

新しい事をしようとしているという点においては評価できるけど、見ていて特におもしろいとは思わなかったので、ABCDでの評価はC。

 

 

22年目の告白 -私が殺人犯です

行きつけの輸入商品雑貨店の人の勧めで、「気狂いピエロ」という映画をTSUTAYAに借りに行った際、その日限定でレンタルキャンペーンをやっていると店員に告げられた。せっかくなので、他の映画も借りようと思い、その場にいた店員3名それぞれのお勧め作品を借りることにした。以下、彼らのお勧め作品名。

 

店員A(女性): 22年目の告白ー私が殺人犯です

 

店員B(女性): ファンタスティックビースト

 

店員C(男性): フィフティシェイズオブグレイ

 

男性店員は、最初「12人の怒れる男達」、次いで「ミッドナイトインパリ」を勧めてくれたのだが、私は既にこれらの作品は観てしまっていたので、借りたのは彼の三つ目のお勧め作品。

 

こういった経緯で観た「22年目の告白ー私が殺人犯です」についてのあれやこれや。

 

殺人の動機

クライマックスのシーンで、真犯人であるジャーナリストは殺人の動機について、おおよそ次のように話していた。

 

彼は、取材先の戦地で友人が後ろから絞殺されるのを見せられたという原因で、心に穴が開いた状態になってしまった。その穴を埋める唯一の手段が、親しい人間を目の前で絞殺されるという自分がされたのと同じ経験を他人にもさせ、それにより、他にも自分と同じ体験をした人間がいるということを認識する事だった。

 

これって、ちょっと問題があると思う。

 

ジャーナリストはメインキャラクターの刑事の妹を殺した際、その一部始終を刑事にも婚約者にも見せていなかった。これでは、彼の心の穴は埋まらない。

 

また、この刑事の妹に対し、刑事のアパートが爆発するところを見せていたが、これも背後からの絞殺ではないので、ジャーナリストの心の穴は埋めることはできなかったはず。

 

さらに、刑事のアパートで、ジャーナリストは、刑事を爆発で殺そうとしたが、これも背後からの絞殺を見せるという行為ではないので、心の穴は埋めることができなかったはず。

 

この最後の点に関しては、ジャーナリストが刑事を爆死させようとした理由は、肩を撃たれたことに対する単なる報復で、心の穴を埋めようしていたわけではない、と言えないこともないのかもしれないが。

 

どうも、ちぐはぐな感じがする。

 

それから、何故、ジャーナリストは殺人を止めたんだろうか? 婚約者が殺人犯として事件を説明していた時は、自分の計画が上手くいかず、ターゲットであるメインキャラクターの刑事ではなく、別の先輩刑事を殺してしまったことが殺人を止めた理由だと言っていたが、これはもちろん、真犯人であるジャーナリストが殺人を止めた理由ではない。心に開いた穴を埋めるために、殺し続けなければならなかったのなら、ジャーナリストが殺人を止めた理由ってなに? それまでに殺した人達で十分だったの?

 

 

時系列

婚約者が、真犯人はジャーナリストだと気付いたのは、テレビ収録の後(翌日?)、ホテルでこの事件に関する映像を見ていた時のようだったが、これは時系列的におかしい。

 

テレビの収録が終った後のシーンで、ジャーナリストの密着取材班が彼の別荘までの地図をなくしたことに気付くシーンがあった。婚約者が別荘へ行くために、盗んだということなんだろうけど、この時点で、婚約者はジャーナリストが犯人だということを知らなかったわけなのだから、彼があの時地図を盗んでいたというのは、どうにも納得がいかない。

 

 

その他

ジャーナリストの別荘、あんなに監視カメラがあってセキュリティーが充実していたのだから、婚約者が窓ガラスを割って侵入した時点で、ALSOKかなんかが駆けつけていただろうに。

 

クライマックスのシーンで、ジャーナリストが部屋に入った丁度いいタイミングでジャーナリストの殺人の記録がモニターに映し出されていた。ということは、婚約者は事前に一人で機材をいじって、何回もリハーサルをしていたということになる。想像すると結構笑える。

 

多分、この作品は神戸の事件の酒鬼薔薇聖斗が手記を出したことに着想を得たのだと思う。 私はあの事件についてあまりよくは知らないのでなんとも言えないが、映画の内容ははあの事件とはあまり関連がなさそうだった。 

 

 

総評

この映画は、よく考えられて作られた作品ではないと思う。それなりに制作費もかかっていそうなので、よくもまあこんなお粗末なものを作れたものだ、と正直呆れてしまった。その一方、おそらくこの映画は、実は彼は犯人ではありません、意外にもこの人が真犯人でした! という、どんでん返しを見せるためのものだったのだろうから、別に細かいところは気にしないで楽しめばいいのだ、とも思う。もちろん、もし自分が映画製作者だったら、こんな恥ずかしい作品は作れないけど。こういう気楽に観れる映画も必要だと思うし、いいんじゃないだろうか。実際、私も少なくとも途中までは、そこそこ楽しんで観れていたし。

 

ABCDでの評価はC。

 

 

アルジャーノンに花束を

ダニエル=キイスのSF小説

 

まあまあ、おもしろかった。以下、あれやこれや。

 

1 みんなが共感できるお話

 誰だってもっと頭がよくなりたいなぁ、とか、こういうことできたらいいのになぁ、という憧れを持っているだろうから、手術前のチャーリー=ゴードンに共感できる。

 

それから、以前何かができるという理由で尊敬していた人のことを、自分がその人以上のことができるようになってしまってから考えて、その人があまり大した人じゃなかったんじゃないか、なんて思うことも、きっとみんなが経験するようなことだから、手術後に周囲の人間より頭がよくなってしまったチャーリーにもみんなが 共感できる。

 

さらに、今現在できることが年をとって(認知症なんかで)できなくなってしまうという可能性(確定していないことと思いたい)に対して、人間誰もが恐怖や焦りを感じるだろうから、手術の効果に持続性がないことを知ったチャーリーにも誰もが共感できると思う。

 

2 頭がいいってことは幸せなことなの?

頭がいいってどういうこと? という話は置いておいて、

 

手術後、頭の良くなったチャーリーは手術前のチャーリーに比べて幸せだったんだろうか? 手術後の方が幸せだったというなら、徐々に頭の良くなっていった中で、どの時点で最も幸せだったんだろうか?

 

チャーリー抜きにこの問題を考えると、自分の周りの人よりちょい上くらいが一番いいんじゃないかと思う。周りの人間と同じように何かの問題に悩み、彼らより少し早く彼らがたどり着く答えに到達する人間は、他人と一緒に問題に取り組む喜びを得る事ができるし、周りが理解できる答えに周りより少し早くたどり着くことで、尊敬されるという喜びをも得る事ができる。周りより極端に頭がいいと、そもそも問題を共有できないだろうし、できたとしても周りの人間の理解を超える答えにたどりついてしまい、孤立するのではないだろうか。

 

勿論、頭がいいと幸せかという問題は頭の良さだけでは考えれない部分もあると思う。例えば、別の理由で周りから好かれている人間が頭がいいと、より好かれるということに繋がり、それがまた幸せに繋がったりすることもあるだろう。しかし、別の理由で嫌われている人間の頭がいいと、それはさらに嫌われる要因になり、より不幸になったりもするのではないだろうか。

 

というわけで、頭がいい人間が必ずしも幸せかというと、そうではないと思う。いや、むしろ、頭がいい人間は不幸だ! 実際、私の知っている頭がいい人は全然幸せそうじゃない。色々んなことを知っていると悩みが増えるだけなのだ。頭なんて良くなくていい。バカの方が幸せなのだ。そうだ、バカ万歳!

 

などという事を言おうものなら、「幸せと満足(happiness and content)は違う!」とJSミルに怒られてしまうかもしれない。高校の倫理の教科書にも載っていたミルの有名な一節が思い出される。

 

「満足した豚よりも不満足な人間である方が良く、満足したバカよりも不満足なソクラテスである方が良い」("It is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied." 興味がある人はUtilitarianismを読もう。)

 

ミルの考えをもとに、私の知っている頭のいい人とバカを比べたとき、色んなことを考える事のできる頭のいい人間よりも、単純なバカの方の方が満足はしているかもしれないが、幸せに関していうと、頭がいい人間の方が幸せだということになる。

 

ちなみに、なんで不満足な頭のいい人間の方が満足したバカより幸せだなんて分かるんだ?

 

ということに関しては、経験者(competent judges)がそういう判断を下すから、というのがミルの答えになるんだと思う。

 

頭のいい人間は、バカな状態(例えば、子供の頃とか)と学んだ後の頭のいい状態と二つを経験している。その二つの状態を比べて、どっちがいいかと聞くと、頭のいい人間は、頭のいい状態の方が良いと言う。バカは頭のいい状態を経験したことがないから、バカの方がいいと言うかもしれないが、経験者と未経験者の意見なら経験者の意見の方が重要だ、ということになるのではないだろうか。

 

さて、「アルジャーノンに花束を」に話を戻そう。

 

バカと天才を経験したチャーリーは、どっちの状態が幸せだと感じていただろうか? 天才の状態の方がバカな状態よりも幸せだったと感じていたんだろうか? それとも、天才になってキニアン先生やパン屋の同僚と上手くいかなくなったチャーリーは、バカだった頃の方が幸せだったと感じていたんだろうか?

 

チャーリーが、バカだった頃の方が幸せだったと言っている記述はプログレスリポートにはなかったとように思う(あったら教えて)。また、手術の効果が永続的でなく、また元に戻ってしまうということを知ったチャーリーはどうにかそれを遅らせようと、本を読んだりしていたので、やはり、バカよりも頭がいい方が幸せだと思っていたのかもしれない。

 

でも、天才のチャーリーは、バカのチャーリーが自分のことを窓から覗いて見ているとか、元に戻るということは、体を元のチャーリーに返すということだなどと言っていたので、この二人は別人格として扱うべきなのかもしれない。もし別人格なら、天才のチャーリーもバカのチャーリーもバカと天才の二つの状態を経験したという事にはならないので、バカと天才はどっちが幸せかという答えをチャーリーから得ることはできない。

 

それから、自分の気持ちを自分が完全に把握できるかというと、そうではないように思える。天才のチャーリーだって自身の気持ちで分からない部分があったと思う(プログレスリポート12に書いてあったし)。だから、天才のチャーリーが、バカよりも幸せだと言ったとしても、自分でも気付かない心の奥底では、バカの方が幸せだったと感じていたかもしれないという可能性は残る。

 

 (この問題について、ミルはなんて言うだろうか? 経験者の心の奥底までもがあらわになるテストを経験者に受けてもらうとか? 例えば、バカになれる薬を天才の経験者に渡したら、天才の経験者はそれを飲まない。この経験者の行動は、心の奥底の感情もすべてひっくるめて経験者が判断した結果だ、なんて言うんだろうか?)

 

ま、そんなこんなで、次は、チャーリーの心の奥底について考えてみよう。

 

 

 3 プログレスリポート12

 とりあえずリポートの概要:

 

セントラルパークでチャーリーは女性と出会い、彼女にセックスしよう誘われたが、妹のノーマを身ごもっていた頃の母親、ローズのことを思い出し、この女性に対し怒りを感じて彼女の肩を掴む。

 

女性は悲鳴をあげ、周辺に居合わせた人間達がチャーリーをフルボッコにしようと追いかけ回す。

 

チャーリーは逃げる途中で何かにぶつかる、よく見るとフェンスで囲まれた子供用の遊具のある場所があって、チャーリーがぶつかったのはそのフェンスだった。

 

チャーリーはセントラルパークから無事に逃げ切るが、現場にいた人間達に捕まえられてフルボッコにされたかったと感じる。

 

家に戻って、この出来事を思い出したチャーリーは、どうして自分はフルボッコにされたいなどと思ったのかとかと不思議に思う。

 

同時に、肉屋の奥さんがネズミの尻尾をナイフで切るという鼻歌がチャーリーの頭の片隅に流れる。

 

さて、なんでチャーリーはフルボッコにされたいと感じたのだろうか? チャーリーの心の奥底にはなにがあるんだろう?

 

でも、その前に一旦、

 

4 ドン・キホーテ

私はドン・キホーテを読んでいないし、買い物をしたこともないけど、

 

頭の良くなったチャーリーが元のチャーリーに戻って行く過程で、チャーリーはドン・キホーテを読んで、それについて、この小説が何かの比喩であることは分かるのだけれど、その比喩がなんの比喩なのかは、もう分からなくなってしまった言っている。

 

ダニエル=キイスさん、わざわざ小説が何かの比喩だということを教えてくれてありがとう! ドン・キホーテが風車をドラゴンだと思って、風車と闘ったりしたなんてことを教えてくれてありがとう! きっと、あなたも小説の中で比喩をふんだんに使っているんでしょうね。

 

そういえばキイスさん、パン屋の女性が頭の良くなったチャーリーにエデンの園の話をしてましたよね。人間が知恵の実を食べてエデンの園を追い出されたとかいう。わざわざご苦労様です。これってやっぱりこの小説の比喩なんですかね?

 

それから、キイスさん、あなたの時代はフロイドが流行ってたんですよね。私はフロイドにそこまで関心がないんですよ。残念ですね。

 

でも、キイスさん、フロイドの学説とあなたの小説って、めっちゃ関係してますよね。チャーリーがお漏らししてるシーンがよく書かれてましたけど、あれってフロイドの心理的性的発達(psychosexual development)の中のアナルステージ(the anal stage)に関連してるんですよね?

 

あと、チャーリーの頭の中に流れていた、肉屋の奥さんがネズミの尻尾を切るっていう歌。あれって、やっぱりフロイドの性器切除に関する恐怖(castration anxiety)と関係してますよね。で、その性器切除の恐怖って比喩的には男性が男らしくなくなることへの恐怖なんですよね。

 

そういえば、チャーリーがキニアン先生とセックスしようとして、パニックになった時、戦士とピンクのほっぺたの若い女性の夢をみて、その夢の中で剣を持っていたのは若い女性の方だったって言ってましたよね。これも男性らしくないってことの比喩ですよね。

 

 

5 母親ローズと妹ノーマとの再開

ローズとノーマと再開したチャーリーは、母親が自分のことを家から追い出した理由は、ローズが、チャーリーがノーマに対して性的な行動をとることを恐れたからだったからだと知る。チャーリーはこれに対し、覚えていないながらもノーマに対して何かしたことがあったのだろうかと不安を感じる。

 

さて、チャーリーは実際にノーマに性的な関心があったのか? なんらかの行動をとっていたのだろうか?

 

ノーマのシャワーを覗いたり、ノーマのパンツを手に取って見ていたというチャーリーの記憶の断片がプログレスリポートに書かれていた。しかし、チャーリーはもっと凄い事もしていたのか?

 

ローズとノーマとの再開のくだりのおかげで、チャーリーがセントラルパークに居合わせた人達からフルボッコにされたいと願った理由がなんとなく見えてくる。

 

そう、チャーリーはドMだったのだ! 

 

違うか。。。

 

 

フェンスで囲まれた子供の遊具のある場所が、チャーリーの心の奥底の子供の頃の記憶の比喩と考えて、

 

セントラルパークにいた女性の妊娠した腹部を見たチャーリーは、妊娠していた当時のローズの姿と共に、自分でもわからない心の奥底で、昔の自分が持っていたノーマへの性的な興味(もっと凄い事も?)と、それが原因で受けたローズからの暴力を思い出した。同時に、チャーリーは当時の自分のノーマに対する性的な感情に罪の意識を感じ、それに対する罰を受けたいと望んだ。 つまり、セントラルパークに居合わせた人達からフルボッコにされるということで、当時の自分のノーマへの感情を償いたいと感じたのだ。だからチャーリーはフルボッコを望んだ。

 

しかし、チャーリーは自分が昔ノーマに対して性的興味を持っていたということを思い出したくない。だから、チャーリーは当時の記憶をフェンスで閉ざして、思い出せないようにしている。結果、何故自分がフルボッコを望んだのかチャーリー自身にはわからない。

 

そこそこ、納得できるんじゃないだろうか?

 

ま、他の考え方(より発展したバージョン?)もあるかもしれない。 例えば、

 

フェンスで囲まれた子供の遊具のある場所 = エデンの園 = 手術前の無知な状態

 

 

6 その他

手術前と、手術後に知能が低下してしまったチャーリーはウサギの足や馬の蹄鉄なんかをお守りとして持っていた。この作品の中で、お守りやおまじないは頭の悪い人間がすることという位置づけなんだと思う。でも、アルジャーノンが死んだ時、バカバカしいと自分で言いながらも、まだ頭の良かったチャーリーはお墓を作って花を添えていた。なんでチャーリーはそんなことしたんだろう?

 

手術前のチャーリーの文章は幼稚に見えるかもしれないが、内容ははっきりと伝わってくる。 私は知的障害者の方々と接する機会がないために、知的障害者をみくびりすぎているのかもしれないが、よりリアリティを出すためには、キイスはもっと分かりにくく書くべきだったんじゃないだろうか?

 

この小説は当時流行っていたフロイドの心理学を意識して書かれているみたいだけど、フロイドの心理学に私は興味が持てないし、この本をより楽しむためだけに、わざわざフロイドの本を読みたいとも思えない。

 

 

総評

上手くできた話だと思うし、読んでいる時も、そこそこおもしろいと思ったけど、やっぱり凄くおもしろいとまでは思わなかったので、ABCDでの評価はB。

 

 

中学生の時、私のクラスでは班ノートという交換日記を書かなければならなかった。その班ノートの中で、テニス部の女子がダニエル=キイスの作品「5番目のサリー」が好きだと言っていた。「アルジャーノンに花束を」も好きだったのかな?

 

 

万葉集1068

歌聖と称された柿本人麻呂が夜空を詠んだ和歌。

 

 

天の海に雲の波立ち月の船 星の林に榜ぎ隠る見ゆ

 

 

なんだか神秘的な感じがする。

 

さすが、人麻呂。

 

美しい。

 

 夜空が海で、雲が波で、月が船で、

 

ん?

 

星は林?

 

何故に海でまとめなかったんだ?

 

思いつかなかったの?

 

人麻呂って、そんな凄くないってこと? 

 

海に関する見立てでまとめると単純すぎるから、そうしなかったんだろうか?

 

確かに、「星の林」が不思議さが増しているような気がしなくもない。

 

「星の林」のおかげで、風に吹かれた林の木々の音が聞こえてきそうな、そして、その音がなんとなく星の瞬きの音にも聞こえるような。

 

それとも、人麻呂がイメージしてたものと私のイメージが違っていたのか?

 

壮大な夜空の海を、月の船がゆっくりと、穏やかな雲の波にゆられながら進んで行く様子を私はイメージしていたんだけれど、波は立っていると詠まれているし、言葉に忠実にイメージすると、

 

嵐の中、なんとか難破するのを免れようと猛スピードで港を目指している船が、勢い余って陸地に乗り上げ、そのまま林の中に突っ込んで行った。

 

と、いった感じになるのか?

 

でも、静かな夜空とする解釈の方が美しいので、「星の林」は上述のような人麻呂の工夫だったということにしておこう。

 

ま、人麻呂がどうゆう理由で「星の林」にしたにしろ、この和歌が美しいことに変わりはないのかもしれない。ABCDでの評価はA。

 

人麻呂の絵を飾って、人麻呂影供でもするかな。

 

 

一週間フレンズ。

アニメ「一週間フレンズ。」。

 

友達の記憶が一週間ごとにリセットされてしまう藤宮さん。そんな彼女と毎週友達になる長谷君のお話。

 

1.リセットされる記憶

 リセットされてしまう記憶というので、私が思い出すのは映画「メメント」とその元ネタになったであろう実在の人物、クライブ=ウェアリング。

 

メメント」は妻を殺され、自分も殺されかけて、その後遺症で、短い間(数十分か数時間くらいだったかな)で記憶がリセットされてしまうようになった主人公が、記憶リセット後の自分へのメッセージを、体にペンで入れ墨し、またそれを読み取みとることにより、自分から妻と新しい記憶を奪った相手に復讐するというお話。

 

で、おそらく「メメント」の作者がメメントを作る上でヒントにしたのが、ウィルス性の病気による脳障害で、7秒毎(もうちょっと長かったりするようだけど)に記憶がリセットされてしまう実在の人物、クライブ=ウェアリング。ウェアリングも日記をつけたりしているのだけど、彼にとってその日記は7秒毎に初めてみるものになるので、その中身は「H時M分、意識が戻ったぞ!」の繰り返し。

 

記憶のリセット、日記を書く事で記憶がリセット後の自分に情報を伝達するといった設定など、「一週間フレンズ。」の元ネタはこの辺なんだろうけど、「一週間フレンズ。」にはこれらの設定要素にもう一つの要素が加えてあって、それが次の項目。

 

 

2.友達のことだけ思い出せない

藤宮さんは友達に関することだけ思い出せない。1話の、藤宮さんが長谷君との屋上での事を思い出そうとするシーンで、長谷君の顔が斜線になってるのを見ていて、この友達のことだけ思い出せないていうのは、(これを読んでいる人は経験があるだろうか?)好きな人の顔だけ思い出せないという現象をヒントにしているんじゃないかな?と思った。

 

というわけで、「一週間フレンズ。」を簡単に表すと、

 

一週間フレンズ。」 = 「メメント」 + 好きな人の顔が思い出せない現象

 

さて、なんで好きな人の顔だけ思い出せないなんてことが起こるのだろうか?

 

今、思いついた、とりあえずの説明: 人間は好きな人を美化してしまいがち、でも、実際の人間の顔ってそこまで対称的で整っているわけではない。だから、実際にはそこまで美しくないその人の顔の写実的な記憶に対して、いやいや、あの人がこんな顔なわけない、と脳のどっかの部分が判断して、結果、好きな人の顔以外の記憶とその人の顔の記憶を結びつけることができないということが起こり、顔をおもいだせなくなる。

 

一般的に女性より男性の方が、恋愛において相手の容姿を重視する傾向があると言われているから、この説明が正しいなら、好きな人の顔が思い出せない現象の経験者は女性より男性の方が多いということになるじゃないかな? また、いわゆるブス専の方々の間ではこの現象の経験者は少ないということになるのではないか? どうなんだろう?誰か調べておくれ。

 

それから、この現象、顔限定なんだろうか? 好きな人の体系なんかも思い出せなかったりするもんなのか? 手ふぇちの人で、好きな人の手だけ思い出せないなんてこともあったりするんだろうか? 後、全盲の人で、好きな人の声だけ思い出せないとか?

 

 

3.学校の張り紙

 「タマゴッぺ」と「ナンパするな」と書かれた張り紙が校内に貼られているシーンが2回(多分)あった。 タマゴッぺはいいとして、「ナンパするな」の意図がイマイチよくわからなかった。

 

高橋留美子の漫画「らんま1/2」の、登場人物が壁をこわしているシーンなんかで、何故か「壁を壊すな」という注意書きが貼ってあったりして笑えるコマがある。この作品での「ナンパするな」の張り紙も同じ様な意図で貼られていたんだろうか? だとすると、アニメの制作者達は長谷君の行為をナンパと捉えていたということになる。でも、同じクラスの生徒の間でナンパするということが概念的に可能なのかは疑問。そして何より、全然おもしろくない。もし、これ以外の意図があったとすると、それがなんだったのかは不明。

 

 

4.演出

「友達との喧嘩。」

長谷君と喧嘩して、屋上で一人でいる藤宮さん。河川敷が写り、タンポポの綿毛がよこを飛んで、藤宮さんが長谷君を探しに走り出すというシーンがあった。

 

それから河川敷で長谷君を見つけたシーンでも、長谷君の「声かけてくれてありがとう」という言葉を聞いた藤宮さんの前をたくさんのタンポポの綿毛が舞っていたし、 日記が見つかるように祈る藤宮さんの前にも綿毛が飛んでいた。

 

これらのシーンで、藤宮さんの感情を表現する演出としてタンポポの綿毛が使われていたのなら、それはベタかもしれないが、効果的な演出に思えるんだけれど、それ以外のところでも綿毛が飛びまくっていたので、なんのための綿毛だったのかよくわからなかった。

 

「友達とトモダチ。」

長谷君と藤宮さんが屋上にいるシーンで、藤宮さんが九条君の話をしだしたとたんに、雲で日が陰る。この演出は意図が明確だったと思う。

 

「友達と海。」

たこさんウィンナーのくだりの直後に突然背景が発光するシーンがあった。時間の経過を表すためのものだったんだろうけど、違和感を感じた。

 

 

総評

まあまあ楽しく見れる、可も無く不可も無くといった感じ。ABCDでの評価はC。

 

メヌエット ト短調 BWV Anh. 115

 

ラピュタっぽい。

 

とてつもなくラピュタっぽい。

 

と、天空の城ラピュタをなぜか思い出してしまった。私はラピュタを小学生の頃に一度しか見ていないのに。。。 不思議。あぁ、ラピュタおもしろかった。。。 滅びの呪文、ダルサだったけ? パズーがシータと一緒にあの呪文を唱えるシーン、別にパズーは唱えなくてもいいのにと見ていて恥ずかしくなったのを今でも覚えている。

 

さて、アナ=マグダリーナ=バッハのためのノートにおさめられていたこの曲、ヨハン=セバスチャン=バッハが作曲したと思われがちだけど、作曲したのはクリスチャン=ペツォルドという人らしい。有名なBWV Anh. 114もペツォルド作曲らしい。

 

素朴な感じがする美しい音楽。別に音をたくさん鳴らさなくてもいい音楽は作れるんだと教えられた気がした。