感想記

乾燥注意

アルジャーノンに花束を

ダニエル=キイスのSF小説

 

まあまあ、おもしろかった。以下、あれやこれや。

 

1 みんなが共感できるお話

 誰だってもっと頭がよくなりたいなぁ、とか、こういうことできたらいいのになぁ、という憧れを持っているだろうから、手術前のチャーリー=ゴードンに共感できる。

 

それから、以前何かができるという理由で尊敬していた人のことを、自分がその人以上のことができるようになってしまってから考えて、その人があまり大した人じゃなかったんじゃないか、なんて思うことも、きっとみんなが経験するようなことだから、手術後に周囲の人間より頭がよくなってしまったチャーリーにもみんなが 共感できる。

 

さらに、今現在できることが年をとって(認知症なんかで)できなくなってしまうという可能性(確定していないことと思いたい)に対して、人間誰もが恐怖や焦りを感じるだろうから、手術の効果に持続性がないことを知ったチャーリーにも誰もが共感できると思う。

 

2 頭がいいってことは幸せなことなの?

頭がいいってどういうこと? という話は置いておいて、

 

手術後、頭の良くなったチャーリーは手術前のチャーリーに比べて幸せだったんだろうか? 手術後の方が幸せだったというなら、徐々に頭の良くなっていった中で、どの時点で最も幸せだったんだろうか?

 

チャーリー抜きにこの問題を考えると、自分の周りの人よりちょい上くらいが一番いいんじゃないかと思う。周りの人間と同じように何かの問題に悩み、彼らより少し早く彼らがたどり着く答えに到達する人間は、他人と一緒に問題に取り組む喜びを得る事ができるし、周りが理解できる答えに周りより少し早くたどり着くことで、尊敬されるという喜びをも得る事ができる。周りより極端に頭がいいと、そもそも問題を共有できないだろうし、できたとしても周りの人間の理解を超える答えにたどりついてしまい、孤立するのではないだろうか。

 

勿論、頭がいいと幸せかという問題は頭の良さだけでは考えれない部分もあると思う。例えば、別の理由で周りから好かれている人間が頭がいいと、より好かれるということに繋がり、それがまた幸せに繋がったりすることもあるだろう。しかし、別の理由で嫌われている人間の頭がいいと、それはさらに嫌われる要因になり、より不幸になったりもするのではないだろうか。

 

というわけで、頭がいい人間が必ずしも幸せかというと、そうではないと思う。いや、むしろ、頭がいい人間は不幸だ! 実際、私の知っている頭がいい人は全然幸せそうじゃない。色々んなことを知っていると悩みが増えるだけなのだ。頭なんて良くなくていい。バカの方が幸せなのだ。そうだ、バカ万歳!

 

などという事を言おうものなら、「幸せと満足(happiness and content)は違う!」とJSミルに怒られてしまうかもしれない。高校の倫理の教科書にも載っていたミルの有名な一節が思い出される。

 

「満足した豚よりも不満足な人間である方が良く、満足したバカよりも不満足なソクラテスである方が良い」("It is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied." 興味がある人はUtilitarianismを読もう。)

 

ミルの考えをもとに、私の知っている頭のいい人とバカを比べたとき、色んなことを考える事のできる頭のいい人間よりも、単純なバカの方の方が満足はしているかもしれないが、幸せに関していうと、頭がいい人間の方が幸せだということになる。

 

ちなみに、なんで不満足な頭のいい人間の方が満足したバカより幸せだなんて分かるんだ?

 

ということに関しては、経験者(competent judges)がそういう判断を下すから、というのがミルの答えになるんだと思う。

 

頭のいい人間は、バカな状態(例えば、子供の頃とか)と学んだ後の頭のいい状態と二つを経験している。その二つの状態を比べて、どっちがいいかと聞くと、頭のいい人間は、頭のいい状態の方が良いと言う。バカは頭のいい状態を経験したことがないから、バカの方がいいと言うかもしれないが、経験者と未経験者の意見なら経験者の意見の方が重要だ、ということになるのではないだろうか。

 

さて、「アルジャーノンに花束を」に話を戻そう。

 

バカと天才を経験したチャーリーは、どっちの状態が幸せだと感じていただろうか? 天才の状態の方がバカな状態よりも幸せだったと感じていたんだろうか? それとも、天才になってキニアン先生やパン屋の同僚と上手くいかなくなったチャーリーは、バカだった頃の方が幸せだったと感じていたんだろうか?

 

チャーリーが、バカだった頃の方が幸せだったと言っている記述はプログレスリポートにはなかったとように思う(あったら教えて)。また、手術の効果が永続的でなく、また元に戻ってしまうということを知ったチャーリーはどうにかそれを遅らせようと、本を読んだりしていたので、やはり、バカよりも頭がいい方が幸せだと思っていたのかもしれない。

 

でも、天才のチャーリーは、バカのチャーリーが自分のことを窓から覗いて見ているとか、元に戻るということは、体を元のチャーリーに返すということだなどと言っていたので、この二人は別人格として扱うべきなのかもしれない。もし別人格なら、天才のチャーリーもバカのチャーリーもバカと天才の二つの状態を経験したという事にはならないので、バカと天才はどっちが幸せかという答えをチャーリーから得ることはできない。

 

それから、自分の気持ちを自分が完全に把握できるかというと、そうではないように思える。天才のチャーリーだって自身の気持ちで分からない部分があったと思う(プログレスリポート12に書いてあったし)。だから、天才のチャーリーが、バカよりも幸せだと言ったとしても、自分でも気付かない心の奥底では、バカの方が幸せだったと感じていたかもしれないという可能性は残る。

 

 (この問題について、ミルはなんて言うだろうか? 経験者の心の奥底までもがあらわになるテストを経験者に受けてもらうとか? 例えば、バカになれる薬を天才の経験者に渡したら、天才の経験者はそれを飲まない。この経験者の行動は、心の奥底の感情もすべてひっくるめて経験者が判断した結果だ、なんて言うんだろうか?)

 

ま、そんなこんなで、次は、チャーリーの心の奥底について考えてみよう。

 

 

 3 プログレスリポート12

 とりあえずリポートの概要:

 

セントラルパークでチャーリーは女性と出会い、彼女にセックスしよう誘われたが、妹のノーマを身ごもっていた頃の母親、ローズのことを思い出し、この女性に対し怒りを感じて彼女の肩を掴む。

 

女性は悲鳴をあげ、周辺に居合わせた人間達がチャーリーをフルボッコにしようと追いかけ回す。

 

チャーリーは逃げる途中で何かにぶつかる、よく見るとフェンスで囲まれた子供用の遊具のある場所があって、チャーリーがぶつかったのはそのフェンスだった。

 

チャーリーはセントラルパークから無事に逃げ切るが、現場にいた人間達に捕まえられてフルボッコにされたかったと感じる。

 

家に戻って、この出来事を思い出したチャーリーは、どうして自分はフルボッコにされたいなどと思ったのかとかと不思議に思う。

 

同時に、肉屋の奥さんがネズミの尻尾をナイフで切るという鼻歌がチャーリーの頭の片隅に流れる。

 

さて、なんでチャーリーはフルボッコにされたいと感じたのだろうか? チャーリーの心の奥底にはなにがあるんだろう?

 

でも、その前に一旦、

 

4 ドン・キホーテ

私はドン・キホーテを読んでいないし、買い物をしたこともないけど、

 

頭の良くなったチャーリーが元のチャーリーに戻って行く過程で、チャーリーはドン・キホーテを読んで、それについて、この小説が何かの比喩であることは分かるのだけれど、その比喩がなんの比喩なのかは、もう分からなくなってしまった言っている。

 

ダニエル=キイスさん、わざわざ小説が何かの比喩だということを教えてくれてありがとう! ドン・キホーテが風車をドラゴンだと思って、風車と闘ったりしたなんてことを教えてくれてありがとう! きっと、あなたも小説の中で比喩をふんだんに使っているんでしょうね。

 

そういえばキイスさん、パン屋の女性が頭の良くなったチャーリーにエデンの園の話をしてましたよね。人間が知恵の実を食べてエデンの園を追い出されたとかいう。わざわざご苦労様です。これってやっぱりこの小説の比喩なんですかね?

 

それから、キイスさん、あなたの時代はフロイドが流行ってたんですよね。私はフロイドにそこまで関心がないんですよ。残念ですね。

 

でも、キイスさん、フロイドの学説とあなたの小説って、めっちゃ関係してますよね。チャーリーがお漏らししてるシーンがよく書かれてましたけど、あれってフロイドの心理的性的発達(psychosexual development)の中のアナルステージ(the anal stage)に関連してるんですよね?

 

あと、チャーリーの頭の中に流れていた、肉屋の奥さんがネズミの尻尾を切るっていう歌。あれって、やっぱりフロイドの性器切除に関する恐怖(castration anxiety)と関係してますよね。で、その性器切除の恐怖って比喩的には男性が男らしくなくなることへの恐怖なんですよね。

 

そういえば、チャーリーがキニアン先生とセックスしようとして、パニックになった時、戦士とピンクのほっぺたの若い女性の夢をみて、その夢の中で剣を持っていたのは若い女性の方だったって言ってましたよね。これも男性らしくないってことの比喩ですよね。

 

 

5 母親ローズと妹ノーマとの再開

ローズとノーマと再開したチャーリーは、母親が自分のことを家から追い出した理由は、ローズが、チャーリーがノーマに対して性的な行動をとることを恐れたからだったからだと知る。チャーリーはこれに対し、覚えていないながらもノーマに対して何かしたことがあったのだろうかと不安を感じる。

 

さて、チャーリーは実際にノーマに性的な関心があったのか? なんらかの行動をとっていたのだろうか?

 

ノーマのシャワーを覗いたり、ノーマのパンツを手に取って見ていたというチャーリーの記憶の断片がプログレスリポートに書かれていた。しかし、チャーリーはもっと凄い事もしていたのか?

 

ローズとノーマとの再開のくだりのおかげで、チャーリーがセントラルパークに居合わせた人達からフルボッコにされたいと願った理由がなんとなく見えてくる。

 

そう、チャーリーはドMだったのだ! 

 

違うか。。。

 

 

フェンスで囲まれた子供の遊具のある場所が、チャーリーの心の奥底の子供の頃の記憶の比喩と考えて、

 

セントラルパークにいた女性の妊娠した腹部を見たチャーリーは、妊娠していた当時のローズの姿と共に、自分でもわからない心の奥底で、昔の自分が持っていたノーマへの性的な興味(もっと凄い事も?)と、それが原因で受けたローズからの暴力を思い出した。同時に、チャーリーは当時の自分のノーマに対する性的な感情に罪の意識を感じ、それに対する罰を受けたいと望んだ。 つまり、セントラルパークに居合わせた人達からフルボッコにされるということで、当時の自分のノーマへの感情を償いたいと感じたのだ。だからチャーリーはフルボッコを望んだ。

 

しかし、チャーリーは自分が昔ノーマに対して性的興味を持っていたということを思い出したくない。だから、チャーリーは当時の記憶をフェンスで閉ざして、思い出せないようにしている。結果、何故自分がフルボッコを望んだのかチャーリー自身にはわからない。

 

そこそこ、納得できるんじゃないだろうか?

 

ま、他の考え方(より発展したバージョン?)もあるかもしれない。 例えば、

 

フェンスで囲まれた子供の遊具のある場所 = エデンの園 = 手術前の無知な状態

 

 

6 その他

手術前と、手術後に知能が低下してしまったチャーリーはウサギの足や馬の蹄鉄なんかをお守りとして持っていた。この作品の中で、お守りやおまじないは頭の悪い人間がすることという位置づけなんだと思う。でも、アルジャーノンが死んだ時、バカバカしいと自分で言いながらも、まだ頭の良かったチャーリーはお墓を作って花を添えていた。なんでチャーリーはそんなことしたんだろう?

 

手術前のチャーリーの文章は幼稚に見えるかもしれないが、内容ははっきりと伝わってくる。 私は知的障害者の方々と接する機会がないために、知的障害者をみくびりすぎているのかもしれないが、よりリアリティを出すためには、キイスはもっと分かりにくく書くべきだったんじゃないだろうか?

 

この小説は当時流行っていたフロイドの心理学を意識して書かれているみたいだけど、フロイドの心理学に私は興味が持てないし、この本をより楽しむためだけに、わざわざフロイドの本を読みたいとも思えない。

 

 

総評

上手くできた話だと思うし、読んでいる時も、そこそこおもしろいと思ったけど、やっぱり凄くおもしろいとまでは思わなかったので、ABCDでの評価はB。

 

 

中学生の時、私のクラスでは班ノートという交換日記を書かなければならなかった。その班ノートの中で、テニス部の女子がダニエル=キイスの作品「5番目のサリー」が好きだと言っていた。「アルジャーノンに花束を」も好きだったのかな?

 

 

万葉集1068

歌聖と称された柿本人麻呂が夜空を詠んだ和歌。

 

 

天の海に雲の波立ち月の船 星の林に榜ぎ隠る見ゆ

 

 

なんだか神秘的な感じがする。

 

さすが、人麻呂。

 

美しい。

 

 夜空が海で、雲が波で、月が船で、

 

ん?

 

星は林?

 

何故に海でまとめなかったんだ?

 

思いつかなかったの?

 

人麻呂って、そんな凄くないってこと? 

 

海に関する見立てでまとめると単純すぎるから、そうしなかったんだろうか?

 

確かに、「星の林」が不思議さが増しているような気がしなくもない。

 

「星の林」のおかげで、風に吹かれた林の木々の音が聞こえてきそうな、そして、その音がなんとなく星の瞬きの音にも聞こえるような。

 

それとも、人麻呂がイメージしてたものと私のイメージが違っていたのか?

 

壮大な夜空の海を、月の船がゆっくりと、穏やかな雲の波にゆられながら進んで行く様子を私はイメージしていたんだけれど、波は立っていると詠まれているし、言葉に忠実にイメージすると、

 

嵐の中、なんとか難破するのを免れようと猛スピードで港を目指している船が、勢い余って陸地に乗り上げ、そのまま林の中に突っ込んで行った。

 

と、いった感じになるのか?

 

でも、静かな夜空とする解釈の方が美しいので、「星の林」は上述のような人麻呂の工夫だったということにしておこう。

 

ま、人麻呂がどうゆう理由で「星の林」にしたにしろ、この和歌が美しいことに変わりはないのかもしれない。ABCDでの評価はA。

 

人麻呂の絵を飾って、人麻呂影供でもするかな。

 

 

一週間フレンズ。

アニメ「一週間フレンズ。」。

 

友達の記憶が一週間ごとにリセットされてしまう藤宮さん。そんな彼女と毎週友達になる長谷君のお話。

 

1.リセットされる記憶

 リセットされてしまう記憶というので、私が思い出すのは映画「メメント」とその元ネタになったであろう実在の人物、クライブ=ウェアリング。

 

メメント」は妻を殺され、自分も殺されかけて、その後遺症で、短い間(数十分か数時間くらいだったかな)で記憶がリセットされてしまうようになった主人公が、記憶リセット後の自分へのメッセージを、体にペンで入れ墨し、またそれを読み取みとることにより、自分から妻と新しい記憶を奪った相手に復讐するというお話。

 

で、おそらく「メメント」の作者がメメントを作る上でヒントにしたのが、ウィルス性の病気による脳障害で、7秒毎(もうちょっと長かったりするようだけど)に記憶がリセットされてしまう実在の人物、クライブ=ウェアリング。ウェアリングも日記をつけたりしているのだけど、彼にとってその日記は7秒毎に初めてみるものになるので、その中身は「H時M分、意識が戻ったぞ!」の繰り返し。

 

記憶のリセット、日記を書く事で記憶がリセット後の自分に情報を伝達するといった設定など、「一週間フレンズ。」の元ネタはこの辺なんだろうけど、「一週間フレンズ。」にはこれらの設定要素にもう一つの要素が加えてあって、それが次の項目。

 

 

2.友達のことだけ思い出せない

藤宮さんは友達に関することだけ思い出せない。1話の、藤宮さんが長谷君との屋上での事を思い出そうとするシーンで、長谷君の顔が斜線になってるのを見ていて、この友達のことだけ思い出せないていうのは、(これを読んでいる人は経験があるだろうか?)好きな人の顔だけ思い出せないという現象をヒントにしているんじゃないかな?と思った。

 

というわけで、「一週間フレンズ。」を簡単に表すと、

 

一週間フレンズ。」 = 「メメント」 + 好きな人の顔が思い出せない現象

 

さて、なんで好きな人の顔だけ思い出せないなんてことが起こるのだろうか?

 

今、思いついた、とりあえずの説明: 人間は好きな人を美化してしまいがち、でも、実際の人間の顔ってそこまで対称的で整っているわけではない。だから、実際にはそこまで美しくないその人の顔の写実的な記憶に対して、いやいや、あの人がこんな顔なわけない、と脳のどっかの部分が判断して、結果、好きな人の顔以外の記憶とその人の顔の記憶を結びつけることができないということが起こり、顔をおもいだせなくなる。

 

一般的に女性より男性の方が、恋愛において相手の容姿を重視する傾向があると言われているから、この説明が正しいなら、好きな人の顔が思い出せない現象の経験者は女性より男性の方が多いということになるじゃないかな? また、いわゆるブス専の方々の間ではこの現象の経験者は少ないということになるのではないか? どうなんだろう?誰か調べておくれ。

 

それから、この現象、顔限定なんだろうか? 好きな人の体系なんかも思い出せなかったりするもんなのか? 手ふぇちの人で、好きな人の手だけ思い出せないなんてこともあったりするんだろうか? 後、全盲の人で、好きな人の声だけ思い出せないとか?

 

 

3.学校の張り紙

 「タマゴッぺ」と「ナンパするな」と書かれた張り紙が校内に貼られているシーンが2回(多分)あった。 タマゴッぺはいいとして、「ナンパするな」の意図がイマイチよくわからなかった。

 

高橋留美子の漫画「らんま1/2」の、登場人物が壁をこわしているシーンなんかで、何故か「壁を壊すな」という注意書きが貼ってあったりして笑えるコマがある。この作品での「ナンパするな」の張り紙も同じ様な意図で貼られていたんだろうか? だとすると、アニメの制作者達は長谷君の行為をナンパと捉えていたということになる。でも、同じクラスの生徒の間でナンパするということが概念的に可能なのかは疑問。そして何より、全然おもしろくない。もし、これ以外の意図があったとすると、それがなんだったのかは不明。

 

 

4.演出

「友達との喧嘩。」

長谷君と喧嘩して、屋上で一人でいる藤宮さん。河川敷が写り、タンポポの綿毛がよこを飛んで、藤宮さんが長谷君を探しに走り出すというシーンがあった。

 

それから河川敷で長谷君を見つけたシーンでも、長谷君の「声かけてくれてありがとう」という言葉を聞いた藤宮さんの前をたくさんのタンポポの綿毛が舞っていたし、 日記が見つかるように祈る藤宮さんの前にも綿毛が飛んでいた。

 

これらのシーンで、藤宮さんの感情を表現する演出としてタンポポの綿毛が使われていたのなら、それはベタかもしれないが、効果的な演出に思えるんだけれど、それ以外のところでも綿毛が飛びまくっていたので、なんのための綿毛だったのかよくわからなかった。

 

「友達とトモダチ。」

長谷君と藤宮さんが屋上にいるシーンで、藤宮さんが九条君の話をしだしたとたんに、雲で日が陰る。この演出は意図が明確だったと思う。

 

「友達と海。」

たこさんウィンナーのくだりの直後に突然背景が発光するシーンがあった。時間の経過を表すためのものだったんだろうけど、違和感を感じた。

 

 

総評

まあまあ楽しく見れる、可も無く不可も無くといった感じ。ABCDでの評価はC。

 

メヌエット ト短調 BWV Anh. 115

 

ラピュタっぽい。

 

とてつもなくラピュタっぽい。

 

と、天空の城ラピュタをなぜか思い出してしまった。私はラピュタを小学生の頃に一度しか見ていないのに。。。 不思議。あぁ、ラピュタおもしろかった。。。 滅びの呪文、ダルサだったけ? パズーがシータと一緒にあの呪文を唱えるシーン、別にパズーは唱えなくてもいいのにと見ていて恥ずかしくなったのを今でも覚えている。

 

さて、アナ=マグダリーナ=バッハのためのノートにおさめられていたこの曲、ヨハン=セバスチャン=バッハが作曲したと思われがちだけど、作曲したのはクリスチャン=ペツォルドという人らしい。有名なBWV Anh. 114もペツォルド作曲らしい。

 

素朴な感じがする美しい音楽。別に音をたくさん鳴らさなくてもいい音楽は作れるんだと教えられた気がした。

 

雨ニモマケズ

宮沢賢治の詩として知られているメモ。

 

雨ニモマケズ
 風ニモマケズ

 

 (中略)


 サウイフモノニ
 ワタシハナリタイ」

 

うん、頑張ってね。

 

ABCDでの評価はD。

 

これの何がいいのか全く理解できない。

 

ライ麦畑でつかまえて

どこかの小説ランキングサイトで一位になっていたので読んだ作品。日本語訳のタイトルからは、クライマックスで20代の男女がライ麦畑で抱き合うアメリカ南部の田舎町を舞台としたラブストーリーを想像し、原文のタイトル(The Catcher in the Rye)からは、野球の話、もしかしたらケビン=コスナー主演映画「フィールドオブドリームズ」の原作かもしれない、などと考えながら私はこの本を読み始めたのだが、実際はニューヨークに住む16歳の少年ホールデンが彼自身の数日間を語ったお話だった。

 

16歳が語っている話という設定だから、作者のJ.D.サリンジャー(女子大生ではない)は話し言葉でこの小説を書いているが、一般的なアメリカ人の16歳くらいの少年がホールデンのような話し方をするのかどうかは不明。ホールデンの話し方は確かに子供っぽい気がするけど、私にとっての一般的な16歳の話し方は"I was like...and he was like..."というように"like"を連発するような感じだから、私の頭の中の16歳の話し方とは少し違う。でも、小説が書かれた当時の16歳達はホールデンみたいな話し方をしていたのかもしれないし、ホールデンは一般的な16歳とは違うのかもしれない。

 

読んでいて私が一番気になったのは、何か一つでも好きなものを挙げてみろとフィービーに言われたホールデンが、その日の朝に出会った修道女達(特に銀縁メガネをかけていた方)と以前いた学校のクラスメイト、ジェームズ=キャッスルのことを思い出したことだった。

 

なんでホールデンはこの時修道女達とジェームズのことを考えたんだろう?

 

単純に、ホールデンが修道女達とジェームズのことが好きだったから?

 

とすれば、なんでホールデンは彼女達のことが好きだったんだろう? ホールデンが好きなタイプの人間とはどういう人達なんだろうか?

 

修道女達のでてきたくだりを見返しててみると、16章にホールデンが彼女達のことを好きだとはっきりと言っている部分があった。その部分でホールデンが話しているのは、自身の叔母やサリー=ヘイズの母親が慈善活動に参加するとしたらそれは、自分がいい人だというアピールのためとかで他人のためではないということだったので、ホールデンが修道女達のことが好きな理由は多分、修道女達が自分のためではなく人のために慈善活動をしているからじゃないだろうか?

 

ちなみに、ホールデンが弁護士になりたくない理由を話している部分があって、そこでホールデンは弁護士になって無実の罪を着せられた人を救うのはいいことだけれど、人のことを救っている弁護士が人を救いたいから弁護士をしているのか、裁判に勝って周りからちやほやされたいから弁護士をしているのかわからないから、弁護士にはなりたくないと言っている。ということで、ホールデンは、純粋に人のためにそれをしたいという気持ちから、そのことをしている人が好きなのだろう。

 

(なんかカントの倫理っぽい。興味がある人は「Groundwork for the Metaphysics of Morals」のmorally praisewrothyということについて書かれてある所を読みましょう。)

 

次、なんでホールデンはジェームズ=キャッスルのことが好きだったのだろうか?

 

キャッスルについてホールデンが語った事を挙げると、キャッスルは

 

ホールデンの以前行っていた学校の同級生だった。

・弱々しい感じの目立たない生徒だった。

・あまりホールデンとは親しくなかった。

・フィル=スタビールというイヤミな感じの生徒について「スタビールはイヤミな人間だ」といったような趣旨の発言をした結果、スタビールとその仲間達に部屋に監禁され、発言を訂正するように強要された。しかし、それには応じず窓から飛び降りて死んだ。

 

ここからうかがえるホールデンがキャッスルを好きな理由は、キャッスルが暴力に屈して正しい意見をねじ曲げるということをしなかったからではないだろうか?(もちろん、キャッスルのスタビールに対する考えが本当に正しいものだったかったかは分からないけれど、ホールデンもスタビールを嫌なやつだと感じていたようなので、彼はキャッスルの意見を正しいものと考えていたのだろう。)

 

ということで、ホールデンは正しい事を正しいと言える人達がお好き。

 

うーん、ホールデンが好きなタイプの人間はひとくくりにできるんだろうか? phony(ホールデンがよく使う言葉)じゃない人達ってことなんだろうけど。ちょっといいまとめ方が思いつかない。

 

さて、正しい事を正しいと言っていたり、人のためになるからという理由でなにかをしている人達が幸せになれるかというと、そうではないのかもしれない。善人よりも悪人の方が楽しく生きているということは多々あることなのかもしれない。ホールデンはそのことに対して理不尽さを抱いていたんじゃないだろうか?

 

キャッスルが死んだのにもかかわらず、スタビール達は学校を退学になっただけで、刑罰を受ける事はなかった。ホールデンはこのことに憤りを感じているようだったし、ホールデンは修道女達が高級なお店で食事をする機会がないということが悲しいと言っていた。人のために何かをしている人が経済的に裕福ではないことが不公平に感じられたからではないだろうか?

 

(正しい事をしている人が必ずしも幸せであるとは限らないのは不公平だ、だから、天国でその不公平を解消する神様がいるに違いない、といったカントの考えを思い出してしまった。興味がある人は「Religion within the Limits of Reason Alone」を読みましょう。J.D.サリンジャーはカントの本を読んでいたんだろうか?)

 

ホールデンはこのよう不公平を是正したいと思っていたのではないだろうか? 少なくとも、キャッスルのような人を救いたい、ホールデンの頭の中で学校の寮の部屋から落ちて行くキャッスルがライ麦畑の崖から落ちて行く子供になって、また、それに対しなんとかしたいという気持ちから、ホールデンライ麦畑の崖から落ちようとする子供を救う人(the catcher in the rye)になりたいと言ったのではないだろうか?

 

こう考えると、この小説の世界観、暗い。純粋に人のためになにかをしている人達は貧しい生活を送り、正しいことを正しいと言った人間は死に、そういった人達を救いたいと思う人間、ホールデンも異常者として精神病院に送られ、そこでこの話をしている。うん、暗い。

 

付け加えると、ホールデンが精神病院に送られたのもキャッスルのように正しい意見を述べた結果じゃないだろうか? 25章で、ホールデンは5番通りの歩道をおりた時に、どこかへずっと落ちて消えてしまう気がしたと言っていた。ホールデンも自身がキャッスルのようにライ麦畑の崖から落ちそうな子供だと感じていたんじゃないかな? それから、歩道を降りてから消えずに道路をわたりきった時、ホールデンはアリーに感謝していたけれど、ということはthe catcher in the ryeはアリーのことなのだろうか?

 

 

気になった事、その2

 

カール=ルースは年上の中国人女性とつきあっているが、ホールデンはルースをゲイじゃないかと疑っていた。

 

ミスターアントリーニも年上女性と結婚しているが、ホールデンに性的興味あり。

 

ということは、この小説の世界の中では、年上の女性に関心がある男性は男性にも性的関心がある?

 

おやっ。。。 ホールデンは電車の中で会ったアーネスト=マーロウの母親に性的な興味があると言っていた。となるとホールデンも実は男好き? 結局、サニーとセックスしなかった理由はそれ?

 

そういえばホールデンは二人の修道女のうち特に銀縁メガネの方が特に気になっていた、それから、この修道女について、彼女はマーロウの母親に似ているとも言っていた。うーん、どういうこと?

 

ゲイの男性が同性愛に対して寛容でない社会において、それを否定するために女性とつきあうようような感じなんだろうか? 実際は、ゲイ、でも認めたくない、もしくは世間体のために、ゲイじゃないふりをして女性と付き合う、それがカール=ルースとミスターアントリーニがやっていることなんだろうか? ホールデンも女性に興味があるふりをしたかったんだろうか? 修道女とならセックスはない。しかも、マーロウの母親似でセクシーな見た目ってっことで女好きアピールにはちょうどいい。だから気になってたってことなの? それとも、カール=ルースもミスターアントリーニもホールデンも、みんなただ単にバイセクシャル

 

 

というわけで、この作品はよく考えて書かれているようだけど、別に読んでいてそれほどおもしろいとは思わなかったので、ABCDでの評価はC。ちょっと厳しめかな?

 

その他、考えたらおもしろいかもしれないこと:

 ・なんで赤いハンチングハット?

 ・セントラルパークのアヒルは冬の間どこに行くんだ?

 ・ホールデン性的虐待を学校で何度も受けていたのか?

 ・ホールデンが彼の話の登場人物達を恋しく思ったのは何故?

 ライ麦畑で崖から落ちそうな子供と関連させて、

 ・ミスターアントリーニの紙に書いたアドバイスについて

 ・メリーゴーランドから落ちそうな子供には何も言わない方がいいとホールデンが思っているのは何故?

 

他にも色々考えて遊べそうだけど、今はそこまでしたいとは思わないかな。

 

オン・ザ・ロード

"We've got to go someplace, find something."

 

Yea, because we ain't gonna find nothing on the road!

 

文学部出身の友人の一押し作品であるジャック=ケロアックの「オン・ザ・ロード」。

つまらなかった。本当に本当に本当に、つまらなかった。あまりにつまらなかったのでちょっと読んで止めて放置、を繰り返し、読むのに一年以上もかかってしまったというほどつまらなかった。

 

M月D日にPへ行ってAをした以外の内容のないブログをひたすら読んでいるような、オチのない話を永遠に聞かされているよな、「ただ書きゃいいってもんじゃないよ!」といったような、この本を読む事、それすなわち苦行、といったような、ヒットラーの考えた拷問じゃないかと疑ってしまうような、つまらない本の代名詞とでも言うべき作品だった。

 

しかし、この作品なぜだか名作といわれている。それが何故かを理解するために、この作品に関する講義を見てみたところ、色々とケロアックがやろうとしていたことがわかった。

 以下、その内容のいくつか:

 

 実体験をできるだけ複製したような小説を書く。

 実体験のあらゆる要素を組み込む。

 時間と同じ早さで進んで行く言葉で書く。

 頭の中の人間の意識の流れを表す。

 躊躇しないで自由に書くことにより、人間の生きるという体験の奥底にあるものを表 す。

 悟りの境地である小説を書く。

 

うーん。。。伝わってこなかったなぁ。 講義を見た後でも作品に対する評価はあまりかわらなかったし、 講義自体ちょっと作品を美化し過ぎのように思えた。

 

ちなみにこの作品、サルとディーンのラブストーリーなんだとか。でも、全くそういう風に感じなかったし、ケロアックが同性愛者と知った上で、この作品を自伝的小説として読まないとなかなかその解釈はでてこないじゃないかと思う。まぁ、ちゃんと読んでなかっただけなのかもしれないけど。

 

とりあえずABCDで評価すると、D。

 

で、結局これがなんで名作と言われているかというと、アイドルの書いてる彼ら彼女らの生活のブログって、そのアイドルに興味がない人にとってはどうでもいいのかもしれないけれど、オタクの人達にとってはそれは凄くおもしろいわけで、それと同じように、ケロアックとビートな仲間達の生き方に憧れた当時の若者達にとって、ケロアックの生活の話はたまらなくおもしろかったんだろう。 そして、そんな当時の若者達が社会的に影響力のある立場にある現在「オン・ザ・ロード」は名作だということになってしまっているのではないだろうか。

 

この本が好きな人、どこがいいのか教えてくれー!